暗き森にも光は射すか | ナノ


▼ 阿諛追従

これは拙いなあ。というのが、時緒の感想だった。『煌太』と名乗った青年のこともそうだし、その煌太にずっとしがみついてにやにやしている女もそうだし、時緒自身もまた然り、だった。
取り敢えず第一印象、そしてこうして話していて、彼が所謂『ろくでなし』であることは聞かずともよく分かった。明らかに情念に囚われた、悪霊になる手前くらいの女を纏わり付かせているところから見ても、多分女性関係に相当だらしないタイプと思われる。
そして、その彼に取り憑いている女。死んだままの姿ではいないものの、その青白い顔と血走ってぎょろついた眼、甘ったるすぎる香水の匂い。どれをとっても少々『ヤバイ』部類なのは見て取れた。これは早めに引きはがさないと相手を取り殺す類だろう。

「それでさあ、そいつがまーた馬鹿なこと言うからさあ」

それでもって、この2人に捕まっている自分もそろそろ危ない。主に精神衛生的な問題で。
時緒自身さほど喋る方ではないが、人と会話をするのは好きだ。しかし煌太が話す内容というのは、本人は『軽快なジョーク』としか思っていないだろう、誰か知らない相手の悪口や中傷と、自慢ばかり。聞いていてちっとも気分が良くない。
適当に何とか相槌を打ちながらも、時緒は少々困っていた。物言えば唇寒し秋の風、という芭蕉の句があるが、この男にそんな意識はないのだろうかと思う。

――それに……。

もう1つこちらの神経をすり減らしてくるのが、煌太に取り憑いた女だ。煌太から離れる気配は見られないものの、彼女は何故か時緒にとても関心があるらしい。普通誰かに取り憑いた霊は、取り憑いた相手に一番意識を向けているものだ。寧ろ他の人間など邪魔されない限り気にも留めない者も多い。
だのに、彼女は未だに時緒を見つめ、にやにやと嬉しそうに笑っている。その表情の意味も分かりかねた。嫉妬に駆られて睨み付けられる方が納得がいく。本当に、これはどういう状況なのだろう。

「でさ、その白い? なんちゃら様ってのがめっちゃ効果あるとかって噂出てさー」

それにしても、この匂い。まるで枯れる寸前の花の匂いを、更に煮詰めて凝縮したような甘ったるさ。こうして喋っている間にもますます強くなってきていて、頭から丸ごと被ったかのようだ。胸焼けがするほど濃く、いっそ臭い。

「どーしてもってんで連れてってやったんだけど? まあ迷信だったわけ。馬鹿だよなあ」

煌太はずっと喋りっぱなしだが、時緒はもう殆ど聞いていなかった。兎に角匂いがきつい。あと視線が気になる。気が散る要素が多すぎて、目の前の相手の、全く楽しくない『ジョーク』に付き合う余裕も無くなってきた。息苦しい。

「時緒姉、顔色悪いよ」

不意に割って入った声。それとほぼ同時に、片方の手を引っ張られた。見れば裕介が水の入ったグラスを手に持って「はい」とこちらに差し出している。
くらくらする頭を少し振った時緒が、ありがと、とか細い声と共にグラスを受け取る。喉を潤す水はほどよく冷えており、頭と胸焼けを少しばかりすっきりとさせてくれた。レモン汁が少し入っているらしく、喉を通る自らはほんの僅かに爽やかな香りと酸味が伝わってきた。

「手、ちょっと冷たいね。人酔いしてるんじゃない? 少し外出てきなよ」

矢継ぎ早にまくし立てる裕介の勢いは強い。殊更声を張り上げているわけでもないのに、視線と態度で口を挟む余裕を与えてくれない。おまけに今まで他の参加者に囲まれていた美麗まで、「あら、本当に具合が悪そうね」と追撃を寄越してきたため、時緒はぎこちなくも頷くことしか出来なかった。

「あの……じゃあ、ちょっと失礼しますね」

とはいえ、此処から一時でも抜け出せるのなら有り難い。色々整理したいことがあるし、もう少し綺麗な空気を吸いたい。この、もはや目にもピンク色に見えてきそうな甘い匂いの中では、トイレの芳香剤の方が余程良い匂いをしていると思えてならない。

「ちょ、待ってよ時緒チャ」
「時緒姉、母ちゃん。トイレはこの広間出て右手だって」
「有り難う裕介。ほら、行くわよ時緒ちゃん」

煌太にもその父親似も口を挟ませず、椎名親子は絶妙なチームプレイで時緒を会場から連れ出してくれた。遠ざかるにつれて薄まる匂いに、思わずほっと息を吐く。気分の悪さはそうそう消えないが、それでも呼吸は少し楽になった……気がした。

 ◇◆

――さて、どうしようかな。

椎名裕介は暖かみのあるクリーム色の壁にもたれかかりながら、やれやれと腕を組んだ。すぐ側にはおなじみのマークのプレートを掲げたトイレの入り口がある。母そして具合の悪くなった従姉は、今その向こう側で一呼吸置いていることだろう。
ちなみに幾ら不調な従姉が心配でも、小学校6年(先日進級したばかりだが)にもなって女子トイレに入るつもりは甚だ無い。万が一にでもあの馬鹿親子(特に息子)が出入り口で待ち構えたりしないよう、睨みを利かせているわけだ。

「はあ」

思わず、といった風情の、深い溜息が漏れる。顔を思い出すのも不快だが、あの下卑た下心満載の親子の顔が思い出されてしまい、深々とした皺を眉間に刻んでしまう。
本人達は(笑えることに)隠していたつもりのようだが、全くもって隠しきれていない。もっとも、あそこまであからさまに、美麗でも裕介でもなく『時緒』の気を引こうとしていたところを見るに、隠す気があったのかすらも最早怪しいが。

「……時緒姉も可哀想に」

ぽつ、と溜息混じりに零れた独り言は、紛れもない本音だ。同情などするのもされるのも好きでは無いが、裕介は時緒のことは身内として好いている。そしてその『立場』の難しさも分かっていて、更に裕介にはどうしようもないことであるとも知っている。だからこそ哀れみもするし、歯痒さだって覚える。苦々しい気分だった。

「お客様、お加減が宜しくないのではありませんか?」

何度も溜息を繰り返す椎名に、話しかけるのを遠慮していたのだろうホテルマンがそっと声をかけてきた。一流ホテルの、一流のホテルマンだ。食事もなかなかのようだったし、奴らはホテルを選ぶセンスはあるらしい。

「宜しければ、フロントにソファなどございますが」
「……大丈夫。家族を待ってるだけなんで」

女の人ってお化粧長いでしょ? と肩を竦めてみせれば、ホテルマンはほっとしたように、ほんの少しだけ苦味を含んだ笑みを見せた。会釈をして去って行った彼に会釈を返し、改めて壁にもたれかかる。
そうしてもう一度、小さく溜息を吐いた、そのとき。

『ねえ、一緒にいたあの女の子、そっちにいるのかしら?』
「は?」

耳慣れぬ女の声が、鼓膜を……否、脳に直接響いた。物理的な震動としての音では無い。『声』ではあるのに『音』ではない。けれど確かに聴こえる、姿亡き者の言葉。

『あら、やっぱり貴方も視えてたのね』
「……何の用?」
『つっけんどんねえ。良いじゃないちょっとくらい。まあ、私が用事あるのは貴方じゃなくて、あの女の子なんだけど?』

お化粧直しかしら? とすっとぼけたことを言う、女……の、霊。纏っている空気は悪霊のそれで、油断していると鳥肌が立ってきそうだ。努めて平静を維持しつつ、裕介は鋭く彼女を睨む。

「時緒姉に何する気?」

事と次第によっては、今この場で追い払うなり退治するなりすることも吝かでは無い。霊具を受付に預けたままの状態であっても、刀印や真言はそれなりに覚えている。裕介の言葉に、女はけらけらと笑った。血走った2つの眼が三日月の形に細められる。

『やあねえ。ちょっとお願い事をしたいだけよ』

どうだか。口には出さず、裕介は鼻を鳴らす。女からはあの会場で香ったのと同じ匂いがしていて、その色濃さと諄さに思わず顔を顰めてしまった。

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