暗き森にも光は射すか | ナノ


▼ 閑話休題

肋角の執務室を出ると、どうやら待っていたらしい災藤が緩く手を振ってきた。側には食堂で別れた筈の斬島もいる。時緒は軽く会釈し、早足で彼らの元に近づいた。

「もう出るんだろう?」
「はい、お世話になりました」

肋角から預かった円筒は、既に鞄の中へ大事にしまってある。時緒は肩紐を掴んだまま、ぺこりとお辞儀した。

「玄関までご一緒するよ。駅までは斬島に送って貰うと良い。いいね、斬島?」
「はい」

さも当然のように斬島が頷くので、少しだけ気後れしてしまう。だが、此処できちんと誰かに送って貰わないと、後から蒼龍のお説教が待っているのは明白。「有り難うございます」と、時緒は再度頭を垂れた。
食堂に寄る許可を貰って立ち寄ると、そこにはまだ数名の獄卒達と、キリカ、あやこが残っていた。そろそろ帰る旨と世話になった礼を伝えると、口々に惜しんでくれたり「また来い」というようなことを言ってくれた。当然ながら社交辞令のようなものだろうが、素直に嬉しい。

「またおいで。歓迎するよ」

先の言葉通り玄関口まで来てくれた災藤に、よしよしと頭を撫でられる。何だか気安い気持ちにさせる触れあいに、酷く面映ゆい気持ちになる。

「お世話になりました」

門を出たところで振り返り、深々と腰を折る。
地獄の鬼が、こんなに優しいなんて知りもしなかった。……本当に、また来られるなら来たいものだ。

「それじゃあ斬島さん、すみませんが駅までよろしくお願いします」
「ああ、勿論だ」
 
生真面目に頷く斬島の声音、視線は共にぶれが無い。まるでこれから一仕事しに行くかのようだ。ついつい笑い声を立ててしまった時緒を、彼は酷く不思議そうに、そして何処か物珍しげに見下ろす。

「……何というか」

イラズの森を歩くときと違い、何となく隣に並んで歩き始めながら。不意に口を開いた斬島の口調は、普段と違って何処か所在なさげだった。歯切れが悪いとも言おうか、自分の中で結論が出ないまま、何とか口を開こうとしている時のような。

「今日は、お前が随分違って見える」
「と、言いますと?」

曖昧な口調で紡がれた言葉は、内容もやはり少々曖昧だった。時緒の双眸がぱちくりと見開かれる。

「何がどう、というのでも無いな。……雰囲気というか気配というか、昨日までと少々印象が異なっているように感じる。気のせいと言われれば、その通りかも知れないが」
「そうですか? 自分じゃ分からないですねえ」

嗚呼、でも。軽く首を捻りつつ、視線を彷徨わせながら時緒は続ける。

「普段お会いしてるときとは場所も時間も格好も違いますし、そう感じるのが当たり前なのかも知れません。実を言うと私も正直、今日は斬島さんはいつもと違って見えましたし」
「そうか?」

今度は斬島が首を捻った。時緒はそれに苦笑気味に頷く。顔の横に一房ずつ残した髪を指で弄ると、不意に斬島の視線がくるくると髪を巻き付ける指に視線を向けた。

「随分長いな」
「え?」
「髪の話だ。いつも纏めているから分からなかった」
「あー、そうですねえ。もう長いこと毛先揃えてるだけですから」

腰を遙かに通り越し、脚の付け根辺りまで伸びきった髪は、やや癖がある上に1本1本が細く、おろしていると頻繁に何処ぞへと絡まってしまう。量が多いので潰れては見えないのは有り難いが、手入れや毎日のセットには少々時間を使う。

「切らないのか?」

首を傾げる斬島は心底不思議そうだった。決して悪意や悪戯心はないのだろうが、美麗や流華辺りが耳に入れたら「何てデリカシーの無い」と怒り出しそうな発言である。ある意味、とても斬島らしいと思うが。

「昔は邪魔だなあと思ってたんですけど、此処までくるとどうでも良くなりますね。纏めてれば大して気にならないですし、今更切っても多分落ち着かなくなりそうで」

雨の日は広がりやすい髪をアイロンで纏めるのも、ゴムやピンを扱うのももうすっかり慣れてしまった。煩わしいと思っていたのは随分昔の話で、今ではただの朝のルーチンワークに過ぎない。

「あと、やっぱりお世辞でも褒められちゃうと駄目ですねえ。親戚の人たちとか友達とかに綺麗って言って貰えることが時々あって。だからですかねえ、切ったらがっかりされちゃうかなあって思うと、ちょっとバッサリ行く気にはなれなかったです」
「そうか」

それでずるずると伸ばし続けて、結局今はこの長さだ。流石にこれ以上は髪の寿命もあるしなかなか難しいだろうが、此処までくるとなかなかのものだろう。

「本当言うと私、裕介君や美麗さん……叔母さま達みたいな、黒くて真っ直ぐな髪に憧れてたんですよ。まあ、無い物強請りなのは分かってるんですけど」

ただまあ、伯父や叔母は自他共に認める『身内大好き』な人間だが、少なくとも醜いものを「美しい」とは間違っても言わない。そんな彼らが綺麗だと言ってくれるから、自分自身があまり好きでは無い質の髪も、今まで嫌いにまではならずに居られたと思う。

「そんな必要もないだろう?」
「え?」
「俺の眼にも、お前の髪がそんなに疎ましく思うようなものには見えない」

至極真面目な顔で斬島がそんなことを言うものだから、逆に一瞬何を言われているのか分からなかった。何一つ反応を返せない時緒の様子も気に留めていないのか、彼は実に淡々としていた。
指で弄っていたのとは反対の一房が、正面から伸びた指先に不意打ちで掬われ、かと思えばするりと離される。頬を一瞬掠めたのは、爪の短く切られた、少しかさついて硬くなった指先の皮膚。

「綺麗な髪だ。こうして陽の当たる場所に立つと、稲穂のような金色に見える」

髪を触られた。それでもって、物凄い殺し文句を言われた。

「……あ」

発生した事象はそれだけだった。しかしたったそれだけの情報を処理するのに、時緒の脳味噌は数秒どころか30秒近い時間を要した。電気信号でやりとりをしているとは思えない遅さだった。

「あ、ああ、あり……あり、ありが……」
「蟻?」
「ち、ちが……!」

言葉が出てこない。思考がまとまらない。物凄く顔が熱い。頭が火照る。湯気が出ているのでは無いかと思うほど、首から上が熱を持っている。

「あ、りがと……ござい、ま、す……」

物凄く上擦った、物凄く情けない、消え入るような細い声で、それだけ言うのがやっとだった。周囲の雑踏にかき消されても何の文句も言えないほど、小さな小さな声。顔もまともに上げられなかったので、すぐ側とはいえ斬島に届いたかどうかも怪しい。
けれど、それが時緒の精一杯だった。それ以上はもう、どうしようもなくて。あとは駅で蒼龍に会うまでに、この火照りが少しでも消えていることを願うしか無かったのだった。

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