暗き森にも光は射すか | ナノ


▼ 怡然自得

びゅんびゅんと動く窓の外。エンジン音。クラクションの音が耳を劈くと同時に、轟音とも呼ぶべき衝突音がした。車体が大きく揺れて、隣に座っていた母に、まるでのし掛かるように庇われて。

『    』

最後に聞いた母の願い。何も覚えていないと言いながら、それだけは今も耳に残している。

「……あ」

丁度爪の先でガラスを叩くような、コツコツという音が耳朶を叩いた。外部からの音に、促されるままに語った余韻に浸っていた脳が現実へと引き戻される。音の方向に視線を走らせれば、そこには真っ白な鳩に似た鳥が1羽留まっていた。

「蒼龍さんだ」

正しくは『蒼龍の式鬼』だが。
しかしそれが飛んできたところを見るに、どうやら彼の用事は終わったらしい。いそいそと立ち上がり窓を開けた時緒の指に、鳩は行儀良くちょこんと留まった。

『やあ時緒ちゃん、首尾はどうだい?』

愛らしい白鳩から聞こえてくる、渋い男性の声。なかなかにミスマッチというかいっそシュールではあるが、時緒は特に気にしない。

「特に問題はないです。蒼龍さんの用事は終わりましたか?」
『ああ、終わったよ。今から獄都駅に向かうつもりだが、そちらはどうかな?』
「ええと」

ちら、と肋角の方を見れば、彼は小さく笑んで頷いて見せた。いつの間にか、話の途中は一度も手を伸ばさなかった煙管を咥え、ぷかりとまた紫煙を吐いている。

「大丈夫です。今から向かいますね」
『それは良かった。じゃあまた駅で。ちゃんと誰かに送って貰うようにね』
「分かりました」

そう時緒が返事するや否や、鳩は一枚の呪符に姿を変え、そのまま小さな火を纏って燃えてしまった。灰も残さずにそれが燃え尽きるのを見守っていると、「時緒」と蒼龍とは違う、けれどやはり低い声で名を呼ばれた。

「遣いの返事だ」

ひょい、と半ば投げて寄越されたそれは、時緒が届けたものによく似た円筒だった。封をしている印も、曼珠沙華があしらわれた同じもの。確か『十王かその側近辺りしか使えない貴重なもの』らしいが……。

「おじさま、ほんとのほんとに偉い人なんですねえ」

閻魔庁の外部機関、特務室。その管理長。時緒にはその『特務室』がどれほど特殊で、その『管理長』がどれだけ立派な立場か具体的には分からない。が、本当なら時緒がこうして直接会えるような立場では無いのだろうということは察せられる。
思わず感嘆した時緒の耳に、何処か呆れたような肋角の溜息が聞こえた。

「好い加減言おうと思っていたが、『それ』はそろそろ止めなさい」
「? それ?」

突然出てきた指示語に対し、頭上へ疑問符が浮かぶ。煙管を口から離した肋角が、空いている手をぽん、と時緒の頭に載せた。

「私はもう、お前を『お嬢さん』とは呼んでいないだろう?」

そういえばそうだ。互いに名乗らなかった8年前と違い、今日出会ってから、肋角が時緒を『お嬢さん』呼びしたのは出会い頭だけだった。
よく分からないが、年相応の呼び方をしろということだろうか。取り敢えずそう解釈した時緒は、部屋の天井をきょろりと見上げて少し思案する。

「……管理長さん?」
「何故そうなる」

間髪入れず突っ込まれた。

「『肋角さん』だ」

仕方ない、とばかりに『正解』を教えられる。出来の悪い生徒を諭すような口振りだった。やや釈然としなかったものの、素直に教えられた呼び名を口にする。

「ろっかく、さん?」

促された呼び名を舌で転がす。初めて呼んだそれは、しかし不思議なくらいしっかりと馴染んだように感じた。

「ろっかくさん。ろっかくさん。……ろっかくさん」

まるで鳥の雛が親を呼ぶように、何度も何度も彼の名を呼ぶ。肋角は酷く微笑ましげに、慈しむような笑みを浮かべた。

「そうだ。折角名を知っているんだ、きちんと使うのが礼儀だろう」
「そういうものですか」
「そういうものだ」

わしゃわしゃと、ほどよい力で頭を撫でられる。皮膚の感触は何となく分かるが、体温はあまり……否、殆ど感じない。まるで亡骸の手のひらのようだ。だが、心地よいことは何も変わらない。時緒は甘える猫のように目を細めた。

「ねえ、おじさま」
「何だ」

言った側から慣れ親しんだ呼び名になったのは、決してわざとではない。だが、ずっと過去に回帰していた心が、時緒の口調を幼いものにしてしまう。

「生きるって、大事なことですねえ」

二度と会えないと思っていたひとに、また巡り会えた。こんなことは、死んでしまえばまず起こり得ない。死した魂は輪廻の輪に戻るか、未練の余り現世に留まるかのどちらかに絞られる。民間伝承の『お迎え』など、まずもって有り得ない。
あのとき死んでいれば、今日の日は絶対に来なかった。

「おじさまに助けて貰えたとき、私、嬉しかった。でも、本当は……怒らないでくださいね? 本当は、同じくらい哀しかったんです」

でも、と言葉を詰まらせた時緒の頭が、不意に抱き寄せられる。ぽすんと軽い音を立てて、額や頬がカーキ色に埋められた。煙草の香りがいっそう濃くなる。眦に浮かんだ涙を誤魔化すように目を閉じて、時緒も両腕を再び肋角の背と腰に回した。

「助けてくれて有り難う、おじさま。――またお会いできて、本当に嬉しい」

優しく頭を撫でられるのが心地よい。苦みのある煙草の香りに、心が酷く落ち着く。

「そうだな。私も、お前にまた会えて良かった」

ぎゅう、と力一杯抱きついても、ちっとも揺らがない力強さが頼もしい。優しい言葉がじんわりと染み込んでくる。酩酊にも似た、ふわふわとした気持ちでいっぱいになる。
思い出の殆ど無い父親も、もしかしたらこんな感じなのだろうか。

「かえりたくないなあ……」

先ほど食堂に居たときは正反対のことを考えていたくせに、我ながら現金なものだ。自嘲気味に苦笑した時緒の独り言が聞こえたのか、頭の上で小さく笑う声がする。

「また来れば良い。元々、此処はある程度来客の融通も利くからな」
「死んだ後に?」
「生きている間に、だ」

ぴん、と人差し指で額を弾かれた。別に前髪を上げているわけでも無いのに、よく額を攻撃されるのは何故だろう。

「いつでも来なさい、時緒」

ぽん、と宥めるように一度、改めて手を置かれる。時緒は腕に力を込めながら、ころころと鈴のような笑い声を上げた。

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