暗き森にも光は射すか | ナノ


▼ 今是昨非

規則的な時計の音だけが室内に響く。あとは時々お茶を啜る音がするだけで、肋角は勿論、時緒も暫くは口を開かなかった。

「しかし、本当に久しぶりだな。あれから何年になる?」

煙の出なくなった煙管を口から離した肋角が、煙草盆の灰吹きをそれで軽く叩いた。カン、という音が響くと同時に、緩んでいた空気が僅かに変わったのを感じる。時緒も少しだけ背筋を伸ばし、居住まいを正した。

「8年です。あのときは8歳でした」
「なら今は、――16か」

赤い瞳が細められる。鮮やかで、ひとつの混じりけも無い赤色。猩々緋。猛る炎より色濃く、血潮それ自体より眼を灼く色だ。

「道理で見違えるわけだな。大きくなった」
「そうですか? 自分じゃよく分かりませんけど……あ、でも背と髪は伸びましたねえ」

毛先部分に癖が残る自身の髪を、一房指に巻き付ける。細くて色も薄い、あまりアジア人らしくはない髪だ。既に太ももの付け根を毛先が越えているので、油断すると椅子に座ったときに下敷きにしてしまうことがある。毛先から自分の体重で髪を引っ張られる形になるので、それが地味に痛い。

「でも、正直それだけですよ。あとは自分でもびっくりするくらい何も変わってません」
「自分の変化は自分では気づかないものだ。良くも悪くもな。現に料理は出来るようになったんだろう?」
「……だからどうしてそのネタ引っ張るんですか、おじさま」

勘弁してくださいって言ったじゃないですかあ。流石に苦い顔をする時緒だが、肋角はどうも大変愉快がっているらしい。「斬島がああも褒めるのは珍しいぞ」などと追い打ちをかけてくる。嬉しいには嬉しいが、いたたまれない気持ちの方が強くなるので本当に止めて欲しい。

「まあ冗談はさておきとして、お前は未だにあそこを彷徨いているんだな」

あそこ、というのは言わずもがな、イラズの森のことだろう。そのうち聞かれるだろうとは思っていたので、時緒もいちいち驚かない。

「まだ、目的が果たせてませんので」

苦い笑みを浮かべて、誤魔化すように湯呑みに口を付ける。少しだけ冷めた煎茶の香りが、すっと心を落ち着けてくれた。

「8年経ってもか」
「8年経ってもです。何せ未熟者ですからねえ。他の怪異に邪魔されることもありますし」
「手こずっているわけだな」
「そうですねえ。ほんと、時間もないし、好い加減決着つけたいんですけど」

連戦連敗です。浮かんだ時緒の笑みに苦みが増す。自嘲すら孕んだそれをあまり見せるまいと、視線をそっと下に向けた。

「――契約は、」
「はい?」
「お前の交わした契約は、故意にしろ偶然にしろ当事者以外の介入を大きく制限する。介入しようとした場合、恐らくはその第三者だけでなく、お前にこそ災厄が降りかかる。……少なくとも今の状態では、私達はお前に何の手も貸してやれん」
「……」
「すまない」

ほんの僅かに色合いを陰らせた赤色に、「……いいえ?」と微笑みを返す。

「元々は私のせいなんです。だから私が決着を付けます。たとえ仮におじさまが獄卒さんを出向かせてくれたとしても、それはその……失礼だけど、正直ちょっと困ります」

微苦笑を浮かべる時緒。だが、肋角は笑わなかった。

「確かにお前は、肝心な所が昔と何も変わっていないな」

酷く真面目な顔をして、赤い瞳が瞬きも殆どせず時緒を見返している。

「自省と自責は似て非なるものだ。分かっているだろうが、お前がしていることは自責であって、自省ではない」
「……」
「悪意の無いお前の言葉は、確かに『切欠』のひとつのはなっただろう。だが、最終的に全てを決めたのは当事者達だ。人は皆、結局は自らの意思で生き方を選び取るもの。本当の決定権が、他人に渡ることは有り得ない。あの老人もそう言っていただろう」
「……そうですね。それはもう、何度も言われました。理解もしてます。でも、」

――それでも私は、これに決着しなければ前に進めない。

「だから、おじさまの言ってることは正しいです。私は8年前から何も変わっていない。身体が大きくなっただけなんです。心が何も成長していない。背伸びして、取り繕うことばかり上手になった、ただの子供。それに……」
「それに?」
「おじさまは今、『悪意の無い』って言いましたよね。私も当時はそのつもりでした。寧ろ善意のつもりだった。でも、本当は違ったんです。だから、やっぱり私のせいなんですよ」

歪な笑みで時緒は笑った。今にも泣き出しそうに、眉はハの字になっている。肋角は相槌を打たなかったが、視線だけで「どういう意味だ」と問うていた。決して強制させるようなものではないが、時緒は素直に口を開く。

「ね、おじさま。おじさまは『幸福』を知ってますか?」

幸福。ごくごく普通の日常的なワードだが、この場合の意味は少し違う。その『違う意味』を正確に察知したらしい肋角の眉が、ぴくりと片方だけ動いたのが見えた。

「天界の『幸福』か?」
「はい。それです。それで、その『幸福』が先日逃げ出したのをご存じですか?」
「……また逃げたのか」

はあ、と深い溜息。先程までどっしりと構え、如何にも泰然自若としていた肋角の雰囲気が、途端に少々草臥れたものに変わった。どうやら身分の高い鬼であるらしい彼も、『天界』には相当困らされているようだ。
天界。所謂『天使』と『神』が住まう次元のことであり、生物の存在する次元の中では、今最も勢力の強い次元と言って過言ではない。
冥界が現世の人間を路傍の石としか見ていないのであれば、天界はいっそ人間を蛆虫やゲジゲジにも満たないものと思っている。時折修行を積んだ徳の高い魂や、素質の高い魂を啓蒙して死後連れて行ったりするが、やはり人間が滅んだところで「で、だから何?」で終わらせる。大抵の人間が想像する、慈悲深く心清き存在などでは決して無い。

「『また』らしいですねえ。ちなみに、ほんとについ先日ですよ。1ヶ月くらい前だったかな。蒼龍さんがもう、珍しいくらい怒ってました」
「それはそうだろうな……。それで、その『幸福』がどうした?」
「あ、そうでしたそうでした」

ずれかけていた話の主軸が修正される。時緒はぽん、と手を叩いた。

「あのですね、その『幸福』狩りなんですが、無理を言って私も参加させて頂いたんです」

ぴくり。肋角のこめかみが動き、顔色がまた僅かにだが変わる。その意味合いは正直読み取れなかったが、褒められたことではないのは分かっていた。時緒は敢えてそこには踏み込まず、苦笑して肩を竦めた。

「私の従弟と友達が行くと言って聞かなかったので、そのお目付役と……あとは純粋な好奇心ですね。物語のような冒険への憧れもありましたし、何より私達は、『幸福』がどういうものかよく分かっていませんでした。だから警戒もしてなかったんです」

『幸福』――恐らくはこの世でもっとも無垢で、この世で最も残酷な兵器。人間には過ぎた玩具。触れてはならない禁忌。

「会ったのか」

幸福に、という一言は紡がれなかった。時緒はそれに「はい」と小さく頷く。

「『しあわせ』って、残酷なんですねえ」

歌うように、或いは独り言のように時緒は呟いた。色の薄い瞳は、何処か遠くを見ていた。茫洋としてすら見える笑みからは、意図的に感情が排除されている。アルカイックスマイルと呼ばれるそれのように、口元だけがつり上がった笑み。

「……敢えて聞こう。『幸福』は、お前に一体何を見せた?」

肋角の問いに、伏せられる眼。けれど沈黙はほんの一瞬で。

「とうに亡くなった、両親を」

紡がれたその一言は、まるで懺悔のような響きを孕んでいた。

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