暗き森にも光は射すか | ナノ


▼ 帰家穏座

『さあ、行きましょうね、時緒ちゃん』

優しい子守歌が聞こえていたこと。車のエンジン音。優しい眼差し。少々居心地の悪かったチャイルドシート。引き攣れたブレーキの音。
それが、最後。その後には、もう時緒の『家族』はいなくなっていた。

『どうして拒むんだい? 幸せになって良いんだよ。幸せに、本物も偽物もないのだから』

自分を不幸だと思ったことはない。
両親は亡くしても、親族は皆親切だった。伯父も叔母一家もとても良くしてくれていて、常に時緒を気にかけてくれた。お金も住まいも、何不自由なく暮らすために必要なものは全て持っている。友人にも恵まれた。親がいないだとか金持ちだとかいう理由で、虐められたことすら一度もない。
天涯孤独の身の上で、こんなにも恵まれているというのもきっと珍しい。本当に自分は果報者だ。その自覚は痛いくらいあるし、感謝もしている。今自分が過ごしている日常が、色々な人たちの厚意と好意に支えられているのだと知っている。それが、どれほどに得がたいものであるかも。

「時緒?」

けれど、どうしてだろう。……何なんだろう。

「どうかしたのか?」

この、胸にのし掛かるような虚無感は。
隙間風に吹かれるような寂寥感は。
喉を掻き毟りたくなるほどの、渇感は。

「何でもないです、よ?」

世間の苦労を知らない小娘の、無い物ねだりでしか無いのだろうか。

「嗚呼よかった。まだ此処にいてくれたんだね」
「あ、災藤さん」

何とも言えない感情を笑って誤魔化したところで、実にタイミング良く食堂の扉が開いた。災藤がこちらに笑顔を向けて、ひらりと手袋を嵌めた手を振っている。

「悪いけど、ちょっと執務室まで来て貰えるかい?」

肋角が呼んでいるよ、と言われて、時緒は急いで立ち上がった。渡りに船とはこのことかと、正直思う。余計な思考に沈んでいた脳味噌を叱咤し、分かりましたと返事をする自分の顔は、笑っていただろうか。

――きちんと、笑えていれば良い。

  ◇◆

「入りなさい」

再びやってきた観音開きの扉をノックすれば、中から低い声で促された。ちら、と先を譲ってくれた災藤の顔を伺えば、笑顔で頷いて促される。失礼します、と言いながら、時緒は目の前の扉を開けた。

「呼びつけて済まないな」
「いえいえ」

座るように促され、設置された椅子に座る。黒い革張りの高級感があるそれは、しかし座ってみれば実に柔らかく身体が沈み込む。一人用のそれは、先程まではなかったものだ。いつの間に運び込んだのだろう。
災藤が続けて入ってきて、手に持っていたトレーを肋角の机に置いた。かと思えば、「じゃあね」と時緒に手を振って、一礼しそのまま部屋を出て行く。

「え……」

てっきり彼も同席するものと思っていたが、扉は何の感慨も持たせずぱたんとしまってしまった。広い執務室に、今は肋角と時緒だけが残される。
改めて見回した室内は広かった。先ほどはそうも感じなかったのは、単にその場の人数が多かったからだろう。考えてみれば、身長170センチをゆうに越えた男性が6人もいて、特に窮屈さも感じなかったのだからなかなかのものだ。

「煎茶で良いか?」
「え? あ、そんな、お構いなく」

はたと我に返れば、肋角が急須を片手にこちらを見ていた。手には上品な色合いの湯呑みが握られている。先ほどまで災藤の持っていたトレーに載っていたものだ。
目に入った情報全てがようやく脳で処理され、時緒は落ち着けていた腰を浮かせた。しかし完全に立ち上がるより先に、実に優雅な動作で「座りなさい」と制されてしまう。

「心配しなくても、味噌汁と違って茶を煎れるのは苦手じゃない」
「……そういう意味で言ったんじゃないですよお」

意地悪げな笑みを見せられ、つい憮然としてしまう。しかし肋角は何とも愉しげな様子で、「冗談だ」と低い声で笑った。
煎茶の良い香りが立ちこめるが、それはすぐ煙草の香りにかき消されてしまう。紫色の煙がぷかりと浮かんで消えていく様は、少し面白い。時緒は小さく微笑んで、そして不躾にならない程度に部屋を見回した。
上品な調度品が適度に設置された、煩雑さの無い部屋だ。艶のある執務机も、書類のファイルが立てられた棚も立派なもので、時緒の座っている椅子もかなり良いものだ。部屋の灯りは細かな細工の美しい繊細なもの。
そして奥の戸棚にしまわれたティーカップは、現世でも『誰でも一度は聞いたことがある』シリーズの磁器が並んでいる。あのブランドは裕介も好きだった筈だ。

「腹は膨らんだか?」
「はい、美味しかったです」

湯気の立つ湯呑みを渡しながら、肋角はそんなことを尋ねてきた。どうにも子供扱いされている感じが拭えないが、時緒は素直に頷くことにした。そこの点について文句は何一つ無い。量も味も十分すぎるほどだった。キリカが普段ひとりで、或いはあやことふたりで作っているらしいが、あの質と分量を毎日維持するのはきっと大変だろう。

「なら良かった。……此処の者達とも打ち解けていたようだな」
「そうですか? 嗚呼でも、とても親切にして頂きました。良いひと達ですねえ」

見ず知らずの人間がひょっこりやってきたというのに、何の文句も言わず昼餉に同席させてくれたのだ。学校で友人達とお弁当をつつきあう時間に似ていて、少し違う。縁の無い家族団欒に混ぜて貰えたような、そんなぬくもった心地がした。

「素敵なところですね、此処は」

目を細めてそんなことを言えば、肋角がく、と喉の奥で笑った。

「それはこの次元の話か? それとも、この館のことか?」
「どっちもです。地獄ってもっと殺伐として暗いイメージでしたし、獄卒さんってもっと冷たい感じかと思ってました。斬島さんは『自分を基準に考えるな』って言ってましたし、冥界の死神さんはもっとこう、クールっていうか、まあ冷たかったですから」

ぱっと見は神官か、或いは隠者のようだった死神の姿を思い出す。本来はその物騒な呼び方にそぐわず、魂が円滑に循環を繰り返すように守る『天使』のようなもの、らしいが。

「その年齢で冥界に関わるというのも穏やかではないな。何かあったか?」
「ここ1年は特に色々ありましたねえ。まあ、大体の当事者は私じゃないんですけど」

もう半年ほど前に遡るが、現世で罪の無い魂を狩って蓄える異端の死神がいた。その死神が十分に力をつけ、ついに現世そのものを滅ぼして新たな次元へ旅立とうとしたのを、すんでのところで阻止したのが『三人悪』を始めとする子供達であり、蒼龍だった。
結果的に、文字通り血反吐を吐きながら、彼らはその死神を無力化させることが出来はした。しかしその、力を抜かれた死神の残骸を連行していった『本来の』死神達は、命がけでボロボロになるまで戦った子供達を労うどころか、一瞥すらくれなかった。当たり前のように力を失った元仲間を連れ、帰って行った。それだけ。

「まあ、あの子達は全然気にしてなかったみたいですけどね」

当時、とはいっても1年前にも満たないのだが、何だかもう遠い昔のようだ。
時緒はうっすらと笑みを浮かべ、湯呑みの中身をそっと啜った。日本茶独特の苦みと、ほんのりとした甘みが口いっぱいに広がる。香りも申し分ない。

「あ……美味しい」
「だから言ったろう?」

肋角が悪戯っぽく片目を閉じた。時緒も笑顔で頷き返す。肩の力がすっと抜ける。
執務机に肘をついた肋角との距離は約2メートルほど。静かな部屋の中で、柱時計の振り子が揺れていた。

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