暗き森にも光は射すか | ナノ


▼ 遠慮近憂

「話があると言っていたか」

何のかんのと言っている間に食事を終え、「お片付けくらいは」と半ば強引に手伝わせて貰った時緒が食堂に戻ると、待っていたらしい斬島に声をかけられた。自分から言い出した癖に半分くらい忘れていた時緒は、思わず彼の顔を見て「あ」と間の抜けた感嘆詞を零してしまった。

「……すみません。まるっと頭からすっぽ抜けてました」

何というか、今日は本当に血の巡りが悪いというか、普段の3割増しほど抜けている気がしてならない。それもこれも頭を打った影響なのか。いや、抜けているという意味なら、昨日の時点でもう色々駄目だった気がするが。
ちなみに洗い物をしている間に、肋角と災藤は再び執務室に戻ってしまったようだった。他の獄卒達も普段ならおのおの自分の時間を取り始める頃のようだったが、今はキリカが時緒の土産を切り分けているとあって、全員それを待っている状態だ。

「ええとですね、実は斬島さんに謝らないといけないことがありまして……」
「俺に?」

嗚呼、物凄く言いにくい。二重の意味で『忘れていた』ことへの後ろめたさが相俟って、誰か後ろ頭を思いっきり引っぱたいてくれないかと思ってしまう。

「実はその、今日の夜なんですが、先月からちょっと外せない用事が入っていたんです。でも私、今朝までそのことをすっかり忘れていて」

申し訳ないが、今夜は帰って来られそうにないのだと、そう告げた時緒は小さく項垂れた。伝えるのがこんなにぎりぎりになってしまったのが申し訳ない。学生で休日の時緒とは違い、彼はいわば多忙な公務員だ。日々のスケジュールというものがきっと綿密にあるだろうし、急にこちらの都合で予定をキャンセルされても困るだろう。

「そうだったのか」

怒られることも重々覚悟していたのだが、しかし斬島の反応は実にあっさりしていた。

「そういうことなら問題無い。わざわざ伝えてくれてすまなかった」
「そんな……あの、本当にごめんなさい。もっと早くお伝えしていれば良かったんですけれど」
「用事があるなら仕方ないだろう。今回はお前だったが、俺も他の任務との関係で予定をずらす可能性はあった。別に気にすることじゃない」

真顔できっぱりと言い切る斬島に気負いは見当たらない。澄んだ深海の瞳をじっと見返してそれを確認した後、時緒はようやくほっと息をついた。

「……有り難うございます。そう言って頂けて安心しました」

これで、後顧の憂いは全て絶ったと言っていい。あとはその、どうにもならない『用事』に対する憂鬱さが残るだけだ。

「斬島ぁ、それ何の話?」

田噛と喋っていた筈の平腹が、不意に話題に入ってきた。のし、と斬島の背にのし掛かるが、お互いに気にした様子は特にない。何というか、これは男子高校生のノリだ。こういうふざけあいをしているクラスメートは、時緒のクラスにもいる。

「任務の話だ」
「ほ? あー、そっか! 時緒が手伝ってんだっけ!」
「微力ながらですが。それで斬島さん、今後の予定ですが……行程を1日ずらして、予備日を使用する形でも宜しいですか?」
「ああ、構わない。こちらは大丈夫だ」

斬島がしっかり頷いたので、時緒も笑みに余裕を取り戻す。拝むように合わせていた両手の間に通すように、ほう、と改めて息をついた。

「そういえば、斬島の今の任務ってどんなだっけ?」

キリカに呼ばれ、人数分のカステラが載ったお盆を運んできた木舌が問う。

「監査だ。通称『イラズの森』と呼ばれる半異界化した森林を見回っている」
「うえっ! 見回りだけ!? うっわ、全然つまんなそー!」
「任務に面白いもつまらないもあるか、馬鹿者が」

谷裂が鋭い三白眼で平腹を睨むも、睨まれた本人は何処吹く風のようだ。盛大に顔を歪めてつまらないつまらないと連呼する彼を、「うぜえ」とたった一言言い放った田噛が殴っている。結構痛そうな音がしたものの、すぐ木舌の持つカステラに意識が行ってしまったらしい平腹には堪えた様子が無い。

「けど、殆ど手つかずの森林地帯なんでしょ? 俺達はまだしも、時緒が歩き回るのは大変じゃない?」

紅茶の入ったポットとカップを手に、佐疫が言う。その科白の内容よりも、彼が口にした呼称の方に、時緒は少し驚いた。

「あ、ごめん。斬島が『時緒』って呼んでるからつい。……嫌だった?」

少しだけ決まり悪げな彼に、時緒は慌てて首を横に振った。本当に少し驚いただけだ。
「いいえ」と答えた時緒に対し、佐疫は「良かった」とやんわり微笑んだ。そして一番最初に煎れた紅茶のカップを、時緒の方に寄越す。一部始終を見守っていた木舌が、「じゃあ、おれも時緒って呼ぼうかな」と笑んだ。

「はい、どうぞ」
「有り難うございます。良い香りですねえ」

ほこほこと湯気の立つ紅茶は綺麗な琥珀色で、質の高いアールグレイの香りがした。きっと茶葉から煎れたものなのだろう。
手慣れた様子なのは、きっと普段からこういうことを良く行っているからに違いない。軍服なのに一流の執事か、ともすれば何処ぞの貴族にすら見えてしまうのは、偏に彼の持つ品の良さ故か。

「こういうの、結構好きなんだ。それより話を戻すけど、そんな場所を夜遅くに歩き回ってて大丈夫なのかい?」

首を傾げる佐疫は気遣わしげだ。時緒はにこりと微笑んで頷く。

「斬島さんにお会いする前から、あの辺りをうろうろするのは日課なんです。自分の庭、じゃないですけど……もう慣れてるというか、大体何処に何が『いる』かは分かりますし、余程で無い限りは何があっても対処出来ますので」
「おお、頼もしい回答だなあ」
「ふふふー、これでも年の割に経験値はありますよ?」

身を乗り出してきた木舌に、茶目っ気たっぷりにVサインを作る時緒。
まだ地獄堂に出入りする子供が時緒1人だったときからの経験に加え、かの『三人悪』が巻き込まれたり首を突っ込んだりした事件の多くにも関わったのだ。自画自賛でも何でもないが、下手に有名な霊能者よりも、そういう場数は踏んでいる。

「まあ、獄卒さんと比べたらきっと微々たるものでしょうけど。ただ何というか、『イラズの森』は土地全体が特殊ですからねえ」

棲み着いた怪異・妖怪変化・悪霊は勿論のこと、突然別の世界への口が開いたり閉じたりする不安定な磁場。それから、殆ど見ても分からない古井戸の跡や地盤の緩い箇所もあったりと、物理的な危険地帯もある。
例えば訓練を積んだ警察や自衛隊の捜索部隊に、現地の猟師や青年団などが同行するというシチュエーションは良くある。また、たとえプロのアルピニストであっても、エベレスト登山の時はまず現地シェルパーを雇う。
要するに、時緒の役目はその『猟師』『青年団員』または『シェルパー』というわけだ。決して斬島の実力その他を疑っているのではなく、単純に土地勘の問題である。

「だから正直、斬島さんが『今日はひとりで行く』と仰らなくてほっとし……あ、いえ、別に斬島さんが頼りないとか、そういうのではなくてですね」

最後まで言いかけた言葉を打ち切り、慌てて取り繕うための言葉を代わりに吐く。悪気の欠片もない分、随分失礼な言い草だという自覚があった。しかし斬島は真面目が過ぎるというか、時緒の言葉に不思議そうに首を傾けて見せる。

「別に否定することも無いだろう。俺はあの森についてなら、お前より余程無知だ」

危なっかしいと言われてもその通りでしかないぞ。と、さも当然のように断言された。それはそれとして確かに事実ではあるが、要は単純に慣れの問題でしかない。

「それはそうですよ。私が何年あそこをウロウロしてると思ってるんですか」
「何年だ?」
「わあ、真面目に聞かれた。……えーと、今年で8年になりますかねえ」

おお、思えば人生の半分。凄い凄い。まるで他人事のようにそう言って、時緒はくすくす笑った。何かを続けるということは酷く根気の要ることだと言うけれど、もはやライフワークに等しいかも知れない。

「わっけわかんねー! 何でンなことしてんの? 別に全然面白くなさそーじゃん!」

ぱちん。瞬き。ずい、とこちらに顔を近づけてきた平腹の鮮やかな黄色を、時緒は思わずまじまじ見つめてしまう。ちなみに彼の皿はは既に空っぽで、佐疫からお代わりを切り分けて貰っていた。
しかし、何だか凄く今更なことを聞かれた気がする。……ただそういえば、斬島は出会った当初から、こちらのことには全く言及してこなかった。そして斬島が聞いてこないものだから、それを良いことに時緒も何も言わなかった。

――『要は、お前が勝てば良いのだ』

「んー……何ででしたっけねえ」

ついでに言うと、聞かれたところでこればかりは教えられないのだが。

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