暗き森にも光は射すか | ナノ


▼ 自縄自縛

「何だ、藪から棒だな」

突拍子も無いことを言い放った時緒に気を悪くした様子も無く、肋角もまた笑みを深めた。ちなみに視界の端では、『おじさま』というその呼び名に平腹と田噛が目を剥いている。

「ふふふ、いえ何となく。気に障ったならごめんなさい」
「……まったく」

和え物をぱくりと口に入れ、にこにこ微笑む時緒。肋角は、まるで可愛らしい悪戯をした子供を宥めるような顔で溜息をつく。

「大人になったと思ったが、そうやって自己完結した結果だけを口に出すのは相変わらずのようだな」
「あれ、そんなに成長して見えました? てっきり『いつまでも子供だ』とか言われると思ってました」
「少なくとも見た目は見違えたな。だが考えてみれば、そのお転婆も相変わらずだ」
「えー?」

お転婆。懐かしい単語だ。昔出会ったときも、時緒は肋角にそう言われた。生まれて初めて言われた単語だったから、随分印象に残っている。昔から「大人しくて聞き分けの良い子」と言われてきた時緒を、『あかめのおじさま』は初めてそんな風に表したのだ。

「やだなあ。私、『お転婆』なんておじさまにしか言われたことないですよ?」
「それはおかしいな。自分を人質に取った脱獄犯に喧嘩を売るようなお嬢さんは『お転婆』で十分だろう」
「あははっ、それは確かに!」

時緒はころころと弾んだ笑い声を上げた。心が再び、あの幼い頃に戻っていくのを感じる。
――あれは8年前の、春の日。雨の夜。イラズの森。

『此処がお前の家か?』
『うん』
『ひとりか?』
『……うん。おとなりには、叔母さま達がいるけど』

助けてくれた『おじさま』の手を引いて、自分のマンションまで案内した。当時来て貰っていたハウスキーパーはその日、急な体調不良で来られないと事前連絡をしてきていて。それで時緒は仕方なくお湯を沸かして、何とかもてなしをしようとしたのだけれど。

「ゆで卵もまともに作れていなかったな、お前は」
「ああ……あれは我ながら酷かったですねえ……。ちゃんと沸騰したお湯に入れなかったから、後から殻を剥こうとする度に白身がべろべろと……」

その場で食べられるものだけでも用意しようとして、台所はそれはもう悲惨なことになったものだ。炊こうとしたご飯は炊飯ボタンと保温ボタンを間違えてべちゃべちゃだったし、おかずといえば生焼けのウィンナーソーセージと、ぐちゃぐちゃのゆで卵。それから、

「でも、おじさまが作ったお味噌汁も良い勝負じゃなかったですか?」

あまりに危なっかしい時緒の所作に、なし崩しに台所に立った『おじさま』も、まあ料理の腕はお察しだったわけで。

「出汁無しの味噌汁は飲めたものではなかったな……」
「具はお豆腐でしたよね。最終的にお豆腐じゃなくて雪花菜みたいになってましたけど」
「それは言うな。……木綿なら、まだ上手くいったと思うぞ」
「あんな乱暴に包丁立てておいて何言ってるんですか。あれじゃ木綿でも厚揚げでも一緒ですよお」

嗚呼、なんて懐かしい。たった1日ではあったけれど、『おじさま』と過ごしたひとときはいっとう安らぎに満ちていて、確かに幸せだった。
庇護してくれていた伯父の元から離れ、一人暮らしを初めてまだ幾ばくも経っていない頃。
多忙だった伯父・光は、妹の忘れ形見である時緒をとても愛してくれていたけれど、一緒に過ごす時間は殆ど取ることが出来なかった。時緒がひとりあのマンションに移り住んだのも、忙しい伯父に時緒の世話という負担をかけないためであり、また未だ独身を貫く彼に、『未婚の子持ち』というレッテルを貼らないためでもあった。
けれど、

『これ、まずいね』
『そうだな。美味くはないな』

幾ら自分で決めたこととはいえ、本当は心細くて寂しくて堪らなかった中で。

『でも、おいしい』

戸惑いながらも一緒に台所に立ち、テーブルを囲んでくれた彼が、どんなに時緒の心を癒し慰めたことか。

「あ。でもでも、料理って意味なら私はちゃんと成長しましたよ!」
「ん?」
「その顔は信じてませんね? 今じゃゆで卵どころか目玉焼きもふわとろオムライスも自由自在なんですから。味噌汁だってちゃんと出汁から取ってますし」
「ほう。そうなのか、斬島?」
「……え?」

突然話題の矛先を向けたせいか、斬島の口からは彼らしからぬ気の抜けた相槌が漏れた。ぽかんと見開かれた眼と、三角形に開いた口。帽子を取って形の良いおでこが露わになっているせいで、見た目の年若い印象が更に増していた。

「斬島さん?」

正直に言って『斬島らしくない』反応に、時緒は小さく首を傾げた。気づけば彼の食事は他の者達と比べて殆ど進んで居ない。昨晩一緒に夕食を食べたときとは比べものにならないほど遅いペースだ。

「……すまない、少しぼうっとしていた」
「そうですか?」

まさか具合でも、と一瞬危惧した時緒を察知したのか、ふるりと斬島は首を振って見せた。何でも無い、とボディランゲージで示す彼の顔色は悪いが、まあ常と変わらないレベルと思われる。
多少疑問は残ったものの、これ以上言及するのも失礼な気がしたので、時緒はそれ以上問いかけるのを止めた。何となく広がってしまった沈黙に、少し困る。どうしたものかと視線を明後日の方向に彷徨わせる間に、しかし斬島がやおら口を開く。

「肋角さん、時緒は料理上手ですよ」
「……斬島さん?」
「ふむ」

突然何を言い出すのか。戸惑う時緒とは対照的に、茶碗を空にした肋角は、何処か意地悪げなものに笑みの種類を変えている。その変化に気づいていないのだろう斬島は、生真面目さの透けて見える所作で頷いた。

「昨日、一昨日と夕食をご馳走になってますが、とても美味しかったです。肋角さんの仰るような時期があったとは露程も知りませんでした」
「ちょ、斬島さんちょっと待っ……」
「あらあら、良いこと聞いちゃったわ」

何だか張り合うような響きを孕んだ斬島の声を遮ろうとしたが、それは別の声に取って代わられた。けれどそれは決して現状を打開するようなものではなく……

「時緒ちゃん、お料理得意なのね。おばちゃんにも色々お話して頂戴な」

という、悪意の欠片も無い笑みを浮かべたキリカによる、一種の死刑宣告だった。
……居たたまれない。物凄く恥ずかしい。それもよりによってこんな、殆どが初対面の人たちに囲まれた状態で、こんな……!

「勘弁してください……」

――本日2回目の、『穴があったら入りたい』だった。

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