暗き森にも光は射すか | ナノ


▼ 顔厚忸怩

硬い布地に頬を寄せる。体温はあまり感じない。すん、と鼻を鳴らせば煙草の香りがした。斬島と最初に会ったとき、彼から仄かに感じた匂いだ。あまりにも僅かで気づかなかったが、こうしてみれば確かに覚えのある……何処の銘柄とも違う不思議な香り。

「そっかあ。おじさまが『肋角さん』だったんだあ」

歓喜と懐かしさに、表情と言葉遣いが緩んだまま戻らない。ぎゅうぎゅうと抱きつく時緒の頭を、大きな手がそっと撫でた。

「私も、お前が『時緒』だとは知らなかったな」
「ええー?」

時緒は微笑ましげに眦を緩める男を見上げたまま、冗談めかして頬を膨らませる。

「予想はついてたんでしょう? ずるいですよお、私だけノーヒントじゃないですか」
「そうか? 斬島の格好で気づくと思っていたが」
「おじさま、昔お会いしたときはお着物だったじゃないですか。そりゃあ今と同じ格好だったら、私だって分かったかも知れないですけど……」

ずるいずるいと嘆いてみせる時緒は、しかしやはり嬉しげだ。男の指が、ゆるく束ねられた時緒の髪をそっと梳く。時緒はくすぐったそうに笑って身を捩った。
嗚呼、懐かしい。何だかんだで一度会ったきりなのだ。それも、時緒が上院町に越してきて、地獄堂の老人とも出会う前。時緒がまだ両手の指の数にも満たない年の頃だ。

『人の子が、何故こんなところにいる?』

覚えている。……憶えている。忘れていない。なにひとつ。
見上げた先の鮮やかな赤色も、そっと頭を撫でてくれた、大きな手の感触も、強面なのに優しげだった微笑みも。

『たすけてくれて、ありがとう』

降っていた雨が、頬を叩く感触も。
救われた安堵と喜び以外に感じた、どうしようもない哀しみも。

「あー、ちょっと管理長。そろそろ彼らに説明してあげてくれません?」

全員置いてきぼりなんだけど、私含めて。と、何処かで微妙に聞いたような科白に振り返れば……それぞれ驚愕の表情を浮かべている獄卒4名が、そこに居た。

「え? ……え? 知り合い? ですか?」
「肋角さんが女の子侍らせてるー」

瞬きを忘れて瞠目する佐疫。驚きよりも『興味津々』な顔でにやにやしている木舌。

「き、きさ、貴様、肋角さんに何を……!」

麻痺した呂律で何とか抗議しようとする谷裂は、目を瞠りながらこめかみを引き攣らせるという、実に器用な顔芸を披露し。

「……」

斬島に到っては、いっそ愛嬌すら感じられるほどぽかんと目と口を開けて、身じろぎすらも忘れて硬直している。
彼らの反応を改めて視認した時緒は、ほんの少しの間だけ脳味噌の状況処理のために無反応を返し、やがて。

「うあっ……!!」

ぼんっっ!! と音がする勢いで、頬どころか顔全体、首や耳に到るまで朱を走らせた。そうして口元を両手で覆い、一足飛びに飛びついていた『おじさま』と距離を取る。

「し、失礼しました……!」

お見苦しいところを、と続ける声はどうしても震えてしまう。何という失態だ。今の今まで現状をすっかり忘れていた。すっかり心が子供に戻っていた自分が恥ずかしい。穴があったら入りたい、とはまさにこのことか。

「いやいや、面白いものを見たよ。それで肋角、こんな幼気なお嬢さんをいつ何処でたぶらかしたんだい?」

人聞きの大変悪いことを言いながら、にこりと微笑む男性。まだ驚きから抜けきらない斬島達4名とは別に、彼の表情や所作に大した動揺は見えない。
それにしても、モデルのように綺麗な男性だ。肋角と並んでも一切見劣りしない。やはり190は越えているだろう長身で、体格はしかしスマート、という言葉が似合うが決してなよなよしてはいない。灰色がかった白い髪をしていて、瞳は淡い青にも灰色にも見える不思議な色合い。良く言えば風格があり、悪く言えばやや威圧的な肋角とは対照的で、涼やかで優雅な雰囲気を纏っている(決して肋角が野暮ったいという意味では無い。ただ、彼の色気やら迫力やらは物凄くストレートなので、そこがやはり違うのだ)。
年齢は肋角よりやや年下に見えるが、その余裕を孕んだ笑みは年長者らしいそれだ。肋角と同じコートを着ていることから、少なくとも斬島達よりも上の立場にあることは分かる。

「以前現世に出たときに少し……な」
「ほお。――初めまして、生者のお嬢さん。ようこそ獄都へ」

柔らかく微笑んだ男性が、やはり洗練された動作で右手を差し出す。

「私は災藤、肋角の補佐をしている。どうぞよろしく」
「あ……結城、時緒です」

軽く広げられた右手は、白い手袋をしていた。時緒はわたわた慌てつつも両手を差し出し、そっと握る。薄い布越しであるせいか、体温は殆ど感じなかった。

「さて、それじゃあ仕切り直しをしようか。各自、順番に報告を」

いつの間にかやっと我を取り戻したらしい獄卒達が、「はいっ」と口を揃えて返事した。一糸乱れず気をつけをした彼らの邪魔にならぬよう、時緒はぱっと災藤の手を離し、部屋の隅に退避する。その様子がおかしかったのか、災藤がくすりと笑ったのが微かに見えた。

「谷裂・斬島は平腹・田噛両名が用意した罠から逃れた亡者3名のうち1名を追跡。亡者は獄都駅付近まで逃走しましたが、そこに偶然居合わせた『蒼い龍』を人質に取ろうとして失敗、取り抑えられたところを捕縛しました」
「木舌・佐疫も同じく、トラップを抜けた亡者1名を追跡しましたが……」
「駅前広場でターゲットの亡者が、えーと、結城さんを人質に取り抵抗しました。最終的に彼女の協力もあり捕縛に成功しましたが、拘束されていた彼女が負傷しました」
「人質……?」
「も、もう治して頂いたので!」

何故か報告を受けている肋角や災藤よりも、斬島の方が大袈裟に反応して怖い顔をする。その青い眼が明らかに時緒のブラウス……正確には、そこに散った血痕に向けられているのが分かり、口を挟むまいと思っていたにも関わらずほぼ反射的に弁明していた。

「それにあの、負傷したのは私が挑発したからです。あの人を逆上させたのは私が余計なことを言ったからで、だからその、木舌さん達の対応に難があったわけじゃ……」
「負傷以前に、無関係の者を人質に取られたという問題は残るんだけどね」

何とか彼らに咎が及ばぬようにと口を開き続けたが、どうにも難しいらしい。災藤に宥めるように言われてしまい、時緒はしゅんと俯いてしまう。

「冥界の死神さんは、私達に一度も謝ったりしませんでしたよ……」

思い返すのは、以前目にしたことのある、此処とは異なる『死後の世界』の者達。
地獄と冥界の次元的な強さは、ほぼ同レベルだという。そして、冥界は現世……人間界にとても無関心だ。人間が死のうが生きようが、関係無い。路傍の石のように、何とも思っていない。壊れようが捨てられようが、少しの気にも留めないというのに。

「地獄ってフレンドリーなんです? それとも獄卒さんが例外なだけ?」

心底不思議になって尋ねれば、災藤が小さく噴き出した。肋角もまた、微かに口元を緩めている。
そういえば今更ながら、斬島も時緒と喋るときは普通だった。時緒を見下した様子も無く、対等な扱いをしてくれていた。だがそれは、ただ単に、彼が『そういう性格』だからだと思っていたが。

「此処は地獄で、私達は鬼だからな」

冥界の神々と一緒にされても困る。駄々をこねる子供を見るような目で見られ、少々決まり悪くなった。赤と灰青の瞳を交互に見比べた時緒は、うーん、と小さく唸る。
鬼とは――少なくとも神よりは――人に優しいいきものらしい。

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