暗き森にも光は射すか | ナノ


▼ 大慈大悲

役目を終えた炎が霧散し、辺りに静寂が戻る。焦げ跡一つ残っていない煉瓦敷きの地面は盛大に破損しており、これはもう全体的に敷き直すしかないだろうと思われた。
その破損した部分の中心に、経帷子を着た男が呆然とへたり込んでいる。魂だけの亡者なのに、まるで『魂が抜けたかのように』虚ろな様を見せていた。

「確保完了、かな」
「だね。お疲れ、佐疫」

煉瓦と違い、彼が持っていた小刀は、すっかり焼け焦げてもうただの『焦げた鉄の板』のようになっていた。多分もう、修復は出来ないだろう。
獄卒の1名が小刀を拾い上げ、ジップロックのついた透明な袋の中に入れた。もう1名は麻縄らしいものを取り出し、手早く手際よく男を捕縛する。よく見れば麻縄には墨で何やら細かく書き付けてあり、何やら呪力を含んでいるらしいことが伺えた。

「……わっ、と」

ようやくのろのろと身体を起こした時緒だったが、きちんと姿勢を正そうとして少々ふらついてしまった。それでも何とか立ち上がり、鞄の他の散らばってしまった持ち物を拾い上げる。土産物の紙袋と、斬島の制帽を入れた袋。先程怨霊に投擲した五鈷杵を最後に拾い上げ、スカートの汚れていない部分で軽く拭いた。

「あ、ちょっと君……」
「……」

抜け殻のようになってしまった亡者の男を見下ろす。先程の憎しみに満ちた表情とは打って変わって、何の感情も感じない空っぽの顔。感情そのものを取り払ったわけではないが、積もり積もってただの邪念となっていた憎悪は焼き払われた。もう少し待てば、まともに話も出来るようになるだろう。

「ごめんなさい」

男の目の高さまでしゃがみ込んだ時緒は、小さく囁く。

「知った風な口を利きました。貴方の気持ちなんて、所詮私には分からない。家族に疎まれる気持ちなんて、せいぜい想像するしか出来ない。不快だったと思います」

男は答えない。それでも続ける。それこそ自己満足に等しいと分かっていたが、言わずにはおれないのだ。

「私は家族を知りません。家族がいるからこその苦しみなんて、何も分からない」
「……」
「でも、貴方が辛かったということだけは伝わりました。怒って恨んで憎んで、でも同じくらいに悲しんで、寂しがっていたことは――確かに視えたし、聴いたんです」
「……」
「それでも、犯した罪は罪だから」

人間の運命とは、大体が最初から決まっているのだという。ある程度ならば変えようもあるが、多くはどうにもならないことが多いのだという。
だが、本当にこれは『決まったこと』だったのか。男が凶行に走る前に、誰かが止めてやることは出来なかったのか。本当に、彼の周りには誰もいなかったのか。彼に愛情を注ぐ者も、彼が愛情を向ける者も、本当に、誰1人。

「貴方が『貴方』として生きる人生は、もうこれからやってこない。貴方はきっとこれから厳しい罰を科せられて、その後は別の命になる。人になるかも知れないし、虫や獣かも知れないし、もっと別の何かかも知れない」
「……」
「私は所詮他人で、人間ですから、貴方の罪を代わることも、軽くすることも出来ないですけど」

理由がどうあれ、事情が何であれ、罪は消えない。それは揺るがないし、変わらない。
だが、たとえ何の関係の無い相手であっても、哀れむことは出来る。心を痛めて、涙を流すことは出来る。……祈ることは、出来る。

「貴方の罪が贖われる日が、1日も早く来ますように」
「それから」
「貴方の『次』が、愛に満ちた人生でありますように」

人殺しの冥福を祈るなど、馬鹿げていると思う者もいるだろう。だが、彼が人を殺したことによって心を痛めた人間以外に、無闇矢鱈と彼を糾弾する権利ある者はいない。かつて、「何の罪も犯していない者だけが石を投げよ」と言い、1人の女を救った救世主がいたように。
だから、祈る。せめて自分だけでも、自分の命が続く限り。

「……ぁ、」

ひくりと男の喉が震えた。真っ白な顔に、少しだけ血の気が戻ってくる。瞬きも忘れて見開かれていた双眸に、じわりと涙の膜が張る。

「あ……ぁあ……あああ……!」

止めどなく、止めどなく、ぼろぼろと溢れる涙の粒。視線は何処か遠くに向けられていて、何を見ているのかは定かではない。
やがて子供のように泣き出した亡者の涙を、時緒は自分のハンカチで拭ってやった。両腕を縛られて動けない彼自身の代わりに、哀しみでいっぱいの涙を拭き取っていく。
男は暫し泣き続けたが、獄卒達は彼を無理矢理連れて行こうとはしなかった。多分もう、無理に引っ張らなくても逃げないと分かっているのだろう。

「ばつをうけます」

嗚咽を少しずつ引っ込めた後、彼はやっと意味のある言葉を発した。

「おれはひとをころしました。かぞくをころしました。かあさんと、とうさんと、いもうとをころしました」
「にくかったんです。おれをあいしてくれなかった。でもおれも、みんなをちゃんとあいしてなかったんです」

何処か子供のように幼い口調で、それでも吐き出し続けるのは懺悔の言葉。

「おれはかぞくをころしました。だから、ばつをうけます」
「かぞくをころした、ばつをうけます」

炎の気配もすっかり消えた空の下で、亡者の静かな慟哭が響く。

「ごめんなさい、ごめんなさい」
「とうさん、かあさん、ねね」
「ごめんなさい」

誰かが深々と息を吐いた。それは時緒だったような気がするし、彼を捕縛した獄卒のどちらかだったかも知れない。
張り詰めていた空気が弛緩していく。思い込みでも油断でもなく、「もう大丈夫だ」と直感が教えてくれる。彼はもう、大丈夫だ。

「差し上げます。要らないかも知れませんけど」

時緒は折りたたみ直したハンカチを、男の経帷子に押し込んで言った。

「憎いとか殺してやるとか、そういうののもっと奥底にあった、貴方の本音を受け止めた布きれです」

差し上げます、要らなくても。時緒はもう一度言って微笑んだ。

「貴方が本当に望んでいたものを、もう二度と忘れないように」

息を詰まらせた男は、やがてまた泣きそうな顔をして、そしてくしゃりと顔を歪めた。

「おっさんがもつには、かわいすぎるなあ」

男は笑った――情けない泣き顔半分、鼻水や涙の跡だらけの顔で。

[ back to index ]

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -