暗き森にも光は射すか | ナノ


▼ 風林火山

パァン、という音がした。――銃声と分かるのに、少し時間がかかった。
首の器官や骨を皮膚ごと圧迫していた力が、俄に緩む。突然出入りが容易になった酸素が、怒濤のように気管支を通って肺へとなだれ込んできた。
カラン、という音のした方を何とか見やる。男が持っていた筈の短刀が、大きく破損して地に落ちたところだった。

「よっ、と!」

すぐ側に走り込んできたカーキ色が、両手に持った得物を振りかぶる。いつの間にか拾いなおしていたらしい斧を頭上に振り上げ、未だ時緒の首を押さえつけている部分(男の腕だった辺りだ)を両断しにかかった。だが、

――どぷんっっ。

敢えてその音を文字にするなら、こんな感じだろうか。粘着質のそれに衝撃は吸収され、切れるどころかダメージを受けた様子も無い。まるで巨大なスライムのようにどろどろのそれは、逆に自分を襲った凶器を取り込むような動きをした。

「うわ!?」

年若い青年の姿(斬島と同じか、もう1つか2つ上くらいに見える)をした獄卒が、「げえっ」という顔を隠しもせず慌て始める。

「……禁!」

これはいけない。酷く咳き込み嘔吐きかけていた時緒が、その手に握っていた自分の『得物』――真鍮の五鈷杵(ヴァジュラ)の尖端を、渾身の力でドロドロに突き立てた。

「ギャア゛!?」

凄まじい火花と閃光が飛び散った。首を絞めていた部分が本体と切り離され、じゅうじゅうと音を立てて蒸発する。元々密教の法具である五鈷杵は、地獄堂の老人から譲り受けた正真正銘の霊具である。少し力を込めるだけで、武器にもなれば結界も張れる。
ようやく正常に取り込まれるようになった酸素に、全身の細胞が噎び泣いている。時緒はのろのろと上体を起こした。視界はまだ少々チカチカしており、頭も割れそうに痛い。

「ちょっと失礼」
「わ……!」

それでも距離を取らなければと動こうとした時緒の身体が、ひょい、とあっけなく横抱きにされる。突然踏ん張り所を失った身体がバランス感覚を失い、無意識に自分を持ち上げた『誰か』の胸板にしがみついた。
反射的にぎゅっと握りしめた服の布地は、見覚えのあるカーキ色。ついでに何故か、甘さを含んだアルコールの香りが鼻腔を擽る。日本酒だろうか。

「木舌、こっちに!」
「はいはーい」

目を白黒させる時緒を余所に、時緒を抱えた誰かは、彼を呼ぶ者の方へと走る。そちらに視線を向ければ、先程まで男を追っていた獄卒の1人がいた。外套を着込んだ彼の手には、先程手放したライフル銃の代わりにリボルバーが握られている。
時緒を抱えて仲間の元に戻った獄卒は、実に丁寧な動作で時緒を地面に降ろした。それどころか「地べたでごめんね」という謝罪と一緒に、軽いウインクまで送られる。何だか茶目っ気のあるひとのようだ。

「怖かったでしょう。もう大丈夫ですよ」

外套を着た方の獄卒が、こちらを向いて微笑んだ。柔和な笑みのようだが、その両手は何処からか取り出したオートマチック式拳銃を2丁握っている。先程まで持っていた筈のリボルバーは消えていた。一体何処から出して、何処にしまったのだろう。
斧を構え直した獄卒が、もう1人より数歩前に出る。オートマチック銃をしっかりと構えた方は、時緒から怨霊を遮るように立つ。
……もしかしなくても、庇われているようだ。何だか申し訳ない。思いっきり仕事の邪魔をしたのは時緒の方なのに。

――でも……。

改めて、すっかり怨霊へと変異してしまった男『だったもの』を見やる。灰色のヘドロもどきのような、不定形の化け物。ヘドロの塊か、灰色の巨大なスライムか。目も鼻も口も、腕も胴体も、もはや明確な身体の部位は殆ど分からない。辛うじて頭部らしいと分かる部位には、もう目・鼻・口の代わりに黒い穴が空いているだけに見える。

『アァ……ォオ゛、ア、ッ……ァァァア゛……!』

嫌悪と憎悪と憤怒。身を焦がすどころか、身を融かす程の熱を孕んだ負の思い。目を背けたくなるほど醜くみっともない、人間の感情が熟れすぎたもの。
恨んで憎んで殺して、ついぞ救われなかった魂の、成れの果て。

「衝撃吸収かあ、厄介だね」
「木舌は打撃に切り替えた方が良いよ。多分切り落とすより叩き潰す方が効果がある」
「そうだね。あーあ、平腹か谷裂がいればなあ」
「酷いな。俺じゃ不満?」
「まさか。いつも頼りにしてるよ、佐疫」

怒濤のような感情の奔流に目眩を覚えている時緒とは裏腹に、2名の獄卒は頗る冷静だった。びりびりと全身を刺す感覚にも堪えている様子は無い。
斧を持った方が軽く地面を蹴り、もう1人が両手の銃の撃鉄を起こす。そうして臨戦態勢に入った彼らに対抗してか、痛みに悶絶していた怨霊ももぞもぞと動き始める。
ドロドロが身体の一部を泥団子のように飛ばしたり、伸ばしてムチのようにしならせたりして攻撃してくる。見た目には本当に汚い泥の塊なのに、それなりに威力はあるらしい。ぶつかった地面の煉瓦を割ったり、広場の街灯を一部へこませたりしている。

「……」

重そうな斧を携えた獄卒はそれを避けたり、得物の腹でぐしゃりと叩いた。時折防御や回避が間に合っていないが、それはサポートに回っている方の銃弾に助けられている。しかし……。

「あぶなっ!」

2名の動きは決して後れを取っていないが、不定形な姿を取った怨霊相手には分が悪い。ぶよぶよの体にダメージは通りにくいようで、撃たれても潰されても、飛び散った一部がずるずると本体の方に戻ってしまっている。本当に巨大スライムを相手にしているようだ。

「あ、あの……っ」
「?」

両手に握った五鈷杵を握り直す。そして、銃を両手に構えたまま、微かに視線だけをこちらに向けた獄卒に、時緒は邪魔と無礼を承知で『決定打』を買って出る。
ちなみに半ば後ろを向いていても、彼の弾丸は的確に怨霊の末端を撃ち落としていく。少し前に出会った『魔弾の射手』を思い出す、鮮やかな腕前だった。

「……ご協力感謝します。木舌! ちょっとそこ離れて!」
「え、何ー!?」

素気なく突っぱねられるかと思ったが、彼は時緒に小さく頷くや否や、前線に出ている仲間に向かって声を張り上げた。何、と尋ねつつも、斧を肩にかけた獄卒は眼前に迫った触手を危なげなく防ぎ、薙ぎ払いながらこちらに戻ってくる。

「何々? 佐疫。何か良いアイディアでも……わわ!?」

斧を担いだ彼が十分な距離を取ったのを確認した後、強く握りしめていた五鈷杵を、時緒は力一杯投擲した。
フォームも狙いも何もあったものではないそれは、しかし信じられないほど真っ直ぐに飛ぶ。そして悪霊の胴体(らしい)部分に食い込んだと思えば、爆発でもしたかのように大きくその部分のヘドロを抉った。蛙の潰れたような悲鳴が、鼓膜を痛めつけてくる。

「おん」

周囲にいたはずの妖達は、いつの間に避難したのか見当たらない。それを目の端で確認した時緒は、両手で印を組み、真言を唱える。
お前にはこれだと、地獄堂で初めに教わった真言を、普段よりもワントーン低い声で紡ぐ。

「降伏し給え。――愛染明王尊」

刹那、見るも鮮やかな炎が、天に向かってあぎとを開いた。火種も何もなしに燃え上がった火柱――召喚した天上の炎が、灰色のヘドロもどきを容赦なく焼いていく。

『ギャアアアアッッ!!?』

絶叫が辺りに轟いた。激痛と苦悶を訴えるそれが、荒波のように周囲に迸る。
炎はその間もますます燃え広がり、分離していた泥団子や触手もどきもまとめて焼いていく。水分を多量に含んでいた泥が水分を奪われるように、炎の中でヘドロは干涸らび、そしてひび割れていった。大きさもどんどん縮み、萎びていく。

「木舌!」
「分かってる! これで、」

どろどろを刮ぎ落とされた本体と、苦し紛れに伸びてきた触手に、幾つもの銃弾が埋め込まれた。オートマチックの弾丸が、次々に怨霊の体に食い込んでいく。

「終わりだよ――っとお!!」

斧を握り直した獄卒が、助走をつけて高く飛ぶ。
高々と振り上げられた鉞の刃が、怨霊の脳天に振り下ろされる。『どちゅ』とも『ぐちゃ』ともつかない、耳にこびりつくような嫌な音。内蔵を潰すような音だ。それに次いで、鼓膜が破られそうなほどの、音にたとえることも難しい断末魔が響く。
真っ二つに割り開かれた本体を、蓮華色の炎が容赦なく焼いていく。天高く上がる火柱を見つめて、時緒は静かに瞑目し、はふりと息を吐いた。

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