暗き森にも光は射すか | ナノ


▼ 一縷千鈞

「何だ嬢ちゃん、意外と剛胆だな」

時緒の首に回した腕の力を強めながら、男はもう少しばかり小刀を持つ手にも力を入れた。首筋の薄い皮膚に刃がもう少し食い込み、つうっと新しい血液が流れ落ちる。
だが、時緒の表情は特に動かない。

「此処から逃げたって、貴方が死んだ事実は変わらない」
「……あ?」
「犯した罪も、消えない」

痛みに多少片眼を瞑ったものの、怯えた様子は無い。面差しも視線も凪いだまま、少し離れた地面を見つめながら言葉を続ける。

「無かったことにも出来ないし、救われも報われもしない」
「……嬢ちゃん。あんま余計な口利くと、俺も何するかわかんねえぞ?」
「――そうだね」

男の片方のこめかみと唇の端が、ひくりと動く。当然時緒からその様は見えていないが、それでも動揺したことは分かる。
剥き出しの魂は正直だ。嘘を吐こうとしても、微かな感情の揺らぎがすぐに伝わる。

「貴方は3人殺した……ううん、4人かな。義理のお母さんと、血の繋がったお父さんと、半分だけきょうだいの妹。それから貴方自身」
「っ……!」
「家族を殺して、自分も殺した。他人の私を殺すなんて、きっと簡単」

時緒の声音は何処までも穏やかだった。うっすらとだが、笑みすら浮かんでいる。男の腕に、余分な力が更にこもった。

「苦しんだでしょう」
「あ?」
「家族を殺した重圧に。罪に。積もり積もった憎しみと殺意の果てに、奪った命と失った存在を嘆いた。貴方はとても後悔した。とても苦しんだ。今も辛くて哀しい。違う?」
「っは……! 分かった風に言うじゃねえか」

嗄れた声が微かに震えていた。ぴしり、と側の煉瓦がまたひび割れる。

「けどなァ、俺はただ仕返しがしてえだけなんだよ。俺を馬鹿にしやがった奴ら、見捨てた奴ら、全部殺してやりてえだけだ。そのためにゃ、あのクソ共だけじゃ足りねえんだよ」
「……」
「メッタ刺しにして、内蔵引き摺り出して、その辺の犬にでも食わせてやる。命乞いさせて、指を関節からちっとずつ斬っていくのも良いな。適当に斬って、バーナーで傷口焼いて料理してやったらさぞ面白ェ顔すんだろうな。とんだ下手物だ!」

ひゃはははは。男の甲高い笑い声が響く。正気を失いたくなるような、怖気がするような声だった。だが、微かに震えてもいる。

「嘘つき」

ほんの僅かな違和だったが、時緒は聞き逃さなかった。少しばかり苦しい呼吸と、未だ出血の止まらない額の痛みに耐えながら、それでも笑みは崩さない。

「だって貴方、自分を殺したでしょう。他に復讐したい人は沢山いるっていうけど、それなら何故、その人達を殺す前に死んだの」
「……!」
「満たされなかったんでしょう? 家族を殺しても、何一つ得られなかった」

いつの間にか、獄卒の1人が何処かに消えていた。斧を持っていた方だ。少しばかり気になったものの、男が気づいていないのなら、余計なことは言わない方が良い。

「貴方は報われなかった。救われなかった。それどころかもっと渇いた。違う?」
「……うるせえ」

流れ込んできた思念と記憶は、どろどろと淀んでいた。吐き出したくなるような恨み辛みに溢れていて、息が詰まりそうだった。
けれど、愛の反対は無関心だという。また、愛と憎しみは紙一重だとも。ただの嫌悪から派生した憎悪だけではなく、渇望から生まれた憎悪もある。
男が燻らせたのは、煮えたぎらせたのは、とうとう爆発させたのは――果たして、そのどちらだったのか。

「どんなに邪険にされても、辛くあたられても、無視されても、貴方にとって彼らは家族だった。……ただひとつの拠り所だった」
「うるせえ」
「恨んだのも憎んだのも、貴方の本音。それは本当だろうけど」
「うるせえ」
「同じくらいには、きっと……きっと、愛しかった」
「――うるせえ!!」

首を掴み直され、地面に叩きつけられる。咄嗟に首を曲げて後頭部をぶつけることは防いだが、代わりに背中を強かに打ち付けられてしまう。痛みに顔を歪める間もなく、ぐっと首を絞められた。
太い指に器官が圧迫され、呼吸が物理的に止められる。声帯も押さえつけられて、言葉も紡げない。男が嫌な笑みを浮かべた。

「ぅぐっ」
「ベラベラよく喋るなァ、おい。知った風な口利きやがってよぉ!」

まるで噴火口から溶岩が流れ出るかのように、黒い怨念がかさを増してどろりと溢れた。
気のせいでも何でも無く、普通の肌色だった男の皮膚が、くすんだ灰色に変わっていく。両目と口がまあるく広がり、ただの黒い虚(うろ)のようになる。首を絞める手が膨らんで、どろどろとした粘着質のものに変わっていく。否、腕だけでは無い。男の体全体が体積を増し、粘度の高い灰色の塊になっていく。膨張していく。
首を絞める力が更に強まる。嘔吐感にも似た苦しさが迫り上がってくる。生理的な涙が浮かび、視界がぼやける。

「お前に何が分かる? 俺の何が分かる? 何を知ってる!? 何も知らねえ癖に、訳知り顔になってんじゃねえよ! お前が俺の何を理解してるっていうんだ!?」
「っ、かは……!」
「救われない? 報われない? 上等だよ! 救いも何も、端から求めちゃいねえ!!」

声音も変わってきていた。嗄れていてもまだ人のものだったそれは、脳味噌をガンガンと直で揺さぶるようなものとなっていた。
おぞましくも哀しい、憎悪のと怨嗟が肌を刺す。哀しくなるほどの憎しみだ。けれど、本当に哀しいのはきっと、時緒でも他の誰でもない。
流石に抵抗しないと駄目か……。朦朧とする意識の中で、時緒はそれだけを考える。出来るだけ穏便に済ませたかったが、こうなってしまえば無抵抗では居られない。……とはいえ、半ば喧嘩を売っているようなものだから、半分以上こうなることは目に見えていたが。
時緒は決して自殺願望者ではない。従弟に呆れられるほど普段から危機感が足りていないし、獄卒とはいえ年頃の男を家にほいほい上げるほど暢気だ。けれど、自らの命を明確に脅かされる状況にあって、全く何もしないなどということは有り得ない。

「ぶっ殺してやる……」
「……っぐ、ぅ」
「殺す、殺す、全部殺す、ぶっ殺す、殺す、殺してやる、殺す、殺す」

視界がハレーションを起こし始めた。首を絞めつける力は更に強くなり、窒息ではなく、首の骨を折りにかかっているような感じだ。どろどろに溶け出した灰色はますます体積をまして、時緒の身体と周囲の地面に降り注いでいる。

「殺す、殺す、殺す、殺す殺す殺、ス、殺す殺す殺、ス殺す、殺ス、殺ス殺す殺ス、殺ス」
『殺ス殺ス殺ス……殺シてやル!!』

滲んだ視界の中で、ぎらりと小刀の刃が閃いた。どろどろぐちゃぐちゃに塗れていながらも、刃の輝きだけが美しい。
そのときになって、ようやく時緒も動いた。辛うじて肩にかけられたままとなっていた鞄のファスナーを手探りで開け、内ポケットに入れていた『それ』を痙攣する手で取り出す。
だが、それだけだ。酸欠で痺れる腕を叱咤して、何とか手に握ったものを離さないようにすることしか出来ない。飛びそうになる意識を、どうにか繋ぎ止めることしか。

――あ、死んだかも。

ぼんやりとそんなことを思う。この期に及んでも、恐怖は沸かない。
高々と振り上げられた刃が、日の光に煌めいた。

[ back to index ]

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -