▼ 鳳鳥不至
その気配は、いつもすぐ側にあった。
気にしなければ何ということもないものだった。日常に意識を向けていれば、殆ど気にならないほど微細で、些細なものだった。
たとえるならば、いつも近所で見かける、名前も知らない猫と時々目が合うような。
或いは、ふと読書から我に返って、顔見知りをたまたま見つけたときのような。
『それ』はいつも側にあって、側にあることで不快感をもたらすことはなかった。……反面、孤独を癒してくれることも、安らぎを運んでくれることも無かったけれど。
――とくん。
ひ弱で些細で、ともすれば1日中でも忘れてしまえるような『それ』。明確な姿も持たず、音もなく、ただじっとこちらを見つめているだけのもの。物心ついたときから『それ』は当たり前にあって、姿も声も掴ませず、ただ息を殺したような微かな気配をいつも纏わり付かせていた。
――とくん。
ただ、ふと『それ』の存在を思い出したとき。そして、『それ』について考えたとき、心臓はいつも不自然に高鳴った。
恐怖も伴わず、恋のような甘いときめきも無く、とくん、とひとつ。
周囲を見回しても、何もありはしない。自分独りだけの部屋に、不自然な物音一つ立たない。けれど確かに『在る』、ナニカ。
見られている。側に居る。けれど、守られているわけではない。気持ち悪いとは思わなかったけれど、幼い頃から不思議で堪らなかった。
だから、
――とくん。
あるとき、ふと『それ』の正体に気づいたとき、酷く得心したのを覚えている。
何の拍子に分かったのかも朧気だが、妙に納得した。納得して、嗚呼、と、嘆息した。
これは、『当たり前のもの』なのだ、と。
当たり前だから、不快もなく。当たり前だから、きっと誰の側にでもある。たまたま感じ取ってしまったのが特別なだけで、『それ』があること自体が特別なのではない。誰も彼もが本当は、『それ』を側に置いて生きている。
だから、日ごと夜ごとに、少しずつ『それ』が近づいて来ていることが分かっても、慌てることは無かった。そんな必要もないと、分かっていた。
「だって、そういうものでしょう?」
息をすることが当然のように。空腹を満たすための欲求が、全ての生き物に備わっているように。
だから、何でもない。何ということもない。
受け入れて、笑っていられる。
静かに、密やかに、穏やかに。
いずれきっと、もっともっと近づいてくる『それ』が、
「私は、これでいいんです」
「嗚呼、でも」
「何かひとつ、ひとつでいいんです。もし、叶うなら」
「私は、」
「私は――……」
いつか私を、とらえるまで。