▼ 不倶戴天
どろどろしたものに、浸かる。胸焼けしそうな程に暗い。
『もうっ、ほんっとうに邪魔な子ね!!』
腹の中にどんどん溜まってきて、喉元まで迫り上がってくる、どす黒い感情。
『あの人の連れ子じゃなかったらすぐにでも叩き出してやるのに!! 早くどっか行ってよ!!』
嫌悪。憎悪。八つ当たり同然の怒り。
『我慢しなさい、お兄さんだろう』
忌避。逃避。見たくないものから目を背ける弱さ。
『お兄ちゃんきったなーい! お風呂ぐらい入りなよー』
無邪気故の残酷さ。面白半分の嘲笑。
――……してやる。
積もっていく憎しみ。どろどろ、どろどろと。やり場の無い苦しみや、理不尽へのやるせなさ。鎖のように重く冷たく、沼のように底の無い。
――殺してやる。
日に日に降り積もり、折り重なり、沈殿して、迫り上がった、どす黒い負の感情は。
――殺してやる……!!
余りにもあっけなく、破裂して。
「ぅ……」
意識の浮上と同時に、頭部に鈍い痛みを覚えた。がんがんと、頭蓋骨を内側から木槌で殴られているような感じだ。耳鳴りもする。無意識に皺を寄せた眉間を、つうっと何かの液体が伝った。
――血……?
鼻筋を通り、ぽた、とロングスカートの上に落ちた液体は、赤い。ついでに鉄臭い。全体的に頭痛が酷いが、額の辺りが特に痛む。のろのろと左手を額にやれば、やはりぬるりとした感触が指先に走った。
――なんだろ、この状況。
記憶が飛んでいるのか、目を覚ます前というか、意識を失う前のことが思い出せない。膝を突いた自分の身体が何かにもたれかかっているのは分かる。首の辺りを何かがぐるりと一巡していて、少しばかり苦しい。そして心なしか、時々首の辺りがぴりぴりと痛む。
「おいこらそこの獄卒共! 動くんじゃねえっつってんだろうが!!」
あ、そうだ思い出した。心の中でぽんと膝を打つ。思い切り頭を掴まれて、勢いよく地面に引き倒されるまでの記憶がようやく戻ってきた。そりゃあ額も割れるというものだ。鼻が折れたり口の中を切ったりしていないのが奇跡と言っていい。
……ともあれ、現状把握はこれにて完了。時緒はもぞりと身体を動かす。時緒を拘束する男が、それに気づいて舌打ちをした。
「チッ……おい嬢ちゃん、動くなよ。俺がこんなクソッタレな場所から出るまではな」
「ぁ……」
大人しくしときゃ殺さねえよ。時緒を拘束した経帷子の男は、そう言って時緒の前髪を掴んで引っ張り上げる。
強制的に上を向かされた時緒の視界で、ちらちらと振られたのは鈍く光る小刀。それはすぐ見える範囲から引っ込められたが、代わりにちくりと首筋に痛みが走る。軽くではあるが、喉を刺された……冷たい刃物の感触が、体中の血液に染みたような気がした。
――蒼龍さん……。
相変わらず痛む頭を叱咤して、意識を保つ。きょろりと視線だけを動かして待ち人を探すが、見当たらない。まだ戻ってきていないのだろうか。そんなに長く眠っていたつもりもないのだが。
「動くなっつってんだろ!! そのおっかねえ斧だの銃だのから手ぇ離せ!!」
「っ……!」
耳元で男が怒鳴る。鼓膜にダイレクトに響いた怒声に、時緒は微かに顔を顰める。別に怖いわけでは無く、単純に大声が耳に痛いだけだ。
しかし、斧だの銃だのとは物騒な単語だ。気を張って蒼龍の気配を探しながらも、時緒は視線をちらりと男と同じ方向に向ける。そして、視界に入ったカーキ色に、少しだけ目を瞠った。
――獄卒さんだ。
斬島が身に纏っていたのと同じ、カーキ色の軍服に制帽。うち1名は外套を纏っているが、同じ型であるのは間違いない。それぞれその手に、鉞とライフル銃を持っている。斬島もそうだが、獄卒の装備品はなかなかに物騒だなと思った。
「しょうがないなあ」
斧を持っている方が、へらりと笑って斧を投げた。がらん、と音を立てて、重たいそれが煉瓦造りの地面に落ちる。それに重ねるようにして、ライフル銃が同じように地面へと投げ出された。
まだ朦朧としている頭で、彼らの仕事の邪魔をしていることに申し訳なさを覚える。頭は相変わらず痛いし、血もまだ止まっていない。徒でさえ頭は血管が多くて、皮膚が薄いせいで出血しやすいのだ。ぽたり、ぽたりと垂れる血が、ブラウスやスカートを汚す。これは帰ったらクリーニングに出さなければと、ぼんやり考えた。
「ひ、はは……ははは! そうだよ、大人しくしてろってんだ……!」
今時緒を押さえつけている男の腕は、霊体の腕だ。肉体という器から引き摺り出された、死者の魂。魂は肉体によってその世界に繋がれるから、今この男は何処にも属さない、人間としての形だけを残した魂そのものということだ。
「殺してやる……!」
嫌悪。憎悪。そして殺意。暴力的でどろどろとした、黒い感情達。一緒に流れ込んでくるのは、その憎悪の芽を出させた『過去』。――歪で哀しい、家族の肖像。
血走った目で、男は嗤う。溶岩にも似た憎しみを滾らせて。
「殺してやる……!!」
剥き出しの魂は、思念の塊だ。たとえ言葉として紡がなくても、本能や感情をそのまま撒き散らす。たとえ本人が語らずとも、記憶や思いが流れ込んでくることすらある。
そうして流れてくる思いは、決して偽りでは有り得ない。
――さっきの夢……。
「揃いも揃って俺を虚仮にしやがって! あいつら全員、全員ぶっ殺してやる!!」
迸る憎悪はもはや凶器だ。びりびりと肌を痛めつけてくるそれに、時緒はぎゅっと眉を寄せる。周囲の煉瓦に亀裂が入り、下の地面が微かに覗く。
「……どうするの?」
怨念が、蜷局を撒く。鎌首を擡げる。どろどろと流れて、沸騰している。混濁する。
「あ?」
「殺して、どうするの?」
淀んでいても歪んでいても、伝わってくる思いに嘘は無い。偽ることは出来ない。けれど、本人すらも気づかない本音が、溢れんばかりの負に潰されて、見えなくなることはある。
本当に望んでいるのが何なのか、分からなくなることは――確かにあるのだ。