暗き森にも光は射すか | ナノ


▼ 疾風迅雷

忘れもしない、幼い日のこと。
未熟で脆弱で無知で、今よりももっとどうしようもなかった、子供の頃。

『人の子が、何故こんなところにいる?』
『……の』

抱き上げられた、太い腕。大きな手。硬い皮膚。高い背丈。低い声。煙草の香り。
そして、鮮烈な赤。

『たすけてくれて、ありがとう』

覚えている。憶えている。――忘れない。決して。
あれが、私の『始まり』だったのだから。

「ぅ、ん……」

ふうっと浮き上がるような感覚とともに、意識が戻ってくる。押し上げた瞼の隙間から差し込んだ電灯の、柔らかな光すら眩しい。時緒は片手で軽く目を覆い、何度か瞬きをした。

「寝てた……?」

窓の方を見やれば、外はまだ暗闇と濃い霧に包まれている。どのくらい眠っていたのだろうと考えつつ、時緒は小さな欠伸をした。まだ少しぼうっとしている頭を振り、意識を完全に戻そうとする。
いつの間に寝てしまったのかと記憶を引っ張り出そうとしたが、いまいち思い出せない。徹夜のツケが今になって回ってきてしまったのだろう。中途半端に眠ったせいで、怠さが少し増した気さえするのが憎らしい。
時緒は小さく溜息を吐いて、再度頭を振った。少し気怠い身体を窓際にもたれさせて、先程まで見ていた夢を思い返す。
懐かしい夢だった。月日と共に多少薄れていても、決して忘れ去りはしない記憶。それと同時に、そこに繋がるまでの諸々も思い出す。
苦しくて、哀しい記憶。……あの赤色は、とても綺麗で優しかったけれど。

――とくん。

鼓動が1つ、鳴る。すぐ自身の胸に手をやっても、そこはとくとくと規則的な心音を伝えるだけ。けれど気のせいではない。
まるで少し気にかかることを、何の前触れも無く思い出したときのように。或いは、1人静かに考え事をしていたときに、思いがけず後ろから声をかけられたときのように。
『それ』は何かにつけて、時緒に存在を主張する。普段見る両親の夢と同じように、訴えてくる。……「忘れるな」と、戒めている。

「嗚呼、起きたんだね」
「……蒼龍さん」
「危なそうだったから、針と布は預かっておいたよ。よく眠れたかい?」

にこりと微笑んだ蒼龍の手元には、確かに時緒が意識を手放す前に握っていた刺繍針と麻布がまとめられている。時緒は慌てて頭を下げた。

「すみません、お手数をおかけしちゃって」

刺繍は殆ど進んでいなかった。出来かけの曼珠沙華は、今も出来かけのままだ。時緒はあーあ、と仄かに嘆息する。

「気にしなくて良いさ。それより、降りる準備をしておきなさい。そろそろ到着する頃合いだからね」

と、蒼龍が言ったのを見計らったかのようなタイミングで、今まで殆ど揺れを感じさせなかった車体が、がくんと高度を落とした。エレベーターが降下を始めたときや、飛行機が着陸体制に入ったときと似た動きだった。

「着陸するよ」

蒼龍が言った。時緒は慌てて途中の刺繍を鞄にしまい、しっかりとファスナーを閉めた。そして、闇と霧に閉ざされた窓に手を当て、覗き込む。すると程なく霧は晴れていき、長いトンネルから抜けたときのように、視界を塞いでいた暗闇が取り払われた。

「わあっ」

眼下に広がった景色に、時緒の唇から歓声が零れる。

「凄い、全然想像と違うっ」

青い空は快晴。遠くに見えるのはなだらかな山々。寝殿造りのお屋敷や、竪穴式住居が点在している場所があるかと思えば、背の高いビル群がまるで若竹のように天に向かって伸びているところがある。時代劇に出てきそうな長屋が所狭しと並ぶ場所の隣には、日本式だが何処かモダンな印象の家々の中に、煉瓦のお屋敷が混じっているような区画も見えた。

「時代が色々混ざってますねえ。博物館のジオラマみたい」
「意図的にそうしてるんだよ。地獄は現世と密接な関係があるからね」

呟いて首を傾げた時緒に、蒼龍は苦笑混じりに答える。

「文化や風習はかなり似たところがあるし、言語も通じるところが多い。罪を許された亡者がそのまま定住することもあるから、色々な国や時代の名残を敢えて残して、区画毎に分けているんだ。……不思議なことだが、特に獄都の中央やその周辺は、どういうわけかとても日本に近いんだよ」

だから変に落ち着くんだ。蒼龍はそう言って笑った。ヨーロッパ暮らしが長く、日本よりも寧ろヨーロッパで名を広めている大霊能力者である彼だが、やはり彼の故郷は日本であるらしい。時緒は少し微笑ましい気持ちになった。

「あ……」

不意に、汽車の高度がぐんぐんと下がり始めた。遠くの山の頂上すら見下ろすことが出来た高さから、座席を転がり落ちない程度の角度で、下へ下へと。遊園地のアトラクションが、少しずつ動きを止めていくかのように。
やがて久しぶりに地面へと戻った汽車は、ガタンガタンと音を立てながら、空中では無く地面に敷かれたレールの上を走り出す。ポー、と汽笛が鳴った。
少しずつだが、走る速度が落ちていく。流れる景色が段々とゆっくりになっていき、ガタンガタンという音も少しずつその間隔を広げていく。汽笛が鳴る。
そして、とうとう滑るように駅の中に入り込み、止まった。

「降りようか」
「あ。はい」

どくどくと高鳴る心臓を鎮めるように、胸に手を当てて息を吐いた。気分が不思議な程高揚している。お遣いで来たのに何だか観光気分だと我ながら呆れてしまうも、文字通りの『未知の世界』に心が躍った。
駅の改札を通り抜け(勿論切符は渡した)人混みの中、蒼龍の背を追って外に向かう。人混みとは言うが、周囲にいるのは多かれ少なかれ『人と違う』者達ばかりで、人間は寧ろ時緒と蒼龍だけのようだ。それが周囲にも分かるのか、先程からちらちらとこちらを窺ってくる者達と視線が合った。

「心配しなくて良いよ。無闇に襲ってくることはないから」

ただ、ちょっと『美味しそう』には見えるだろうね。と、安心させたいのか不安がらせたいのか分からないことを蒼龍は言った。本人なりのジョークなのだろうが、此処にてつしが居れば「寧ろ心配しかできねーよ!!」とでも怒鳴ったに違いない。生憎今いるのは時緒だけなので、苦笑いだけで終わってしまったが。
駅の出口は比較的すぐに見えてきた。低い天井の下を歩き終わり、ようやく青い空の下に出る。

「ちょっと待っててくれるかい? 馬車の時間を調べてくる」
「馬車、ですか?」
「閻魔庁までは乗合馬車が便利なんだ」

タクシーもあるけどね、という蒼龍の言葉通り、大通りには何だか玩具のようなデザインの車が幾つも走っている。歩いて行く蒼龍を見送った時緒は、周囲をぐるりと見回した。
目の前に広がる、待ち合わせ場所で多用されているらしい広場。その外には大通りがあり、瓦屋根の和風の建築と、西洋風の煉瓦造りの家々が入り交じって建っている。点在する街灯は少しレトロなデザイン。お店も沢山出ているようだ。視線を上に向ければ、所々に高い塔の先端が覗いているのが分かった。

「観光したいなあ」

まるで時代劇の世界だ。和洋折衷ながら趣のある景色に、感嘆の息を禁じ得ない。蒼龍から動くなと言われている以上ふらふらすることは出来ないが、後でちょっとでもこの辺りを歩くことは出来ないだろうか。……などと、のんびり考えていた丁度そのとき。

「……ん?」

きゃあ、という悲鳴が遠くから聞こえた。それとほぼ同時に、男のものらしい野太い怒号も。ガシャン、と何かの割れる音。悲鳴。また怒号。破壊音。悲鳴。騒音。

「退け退け退けェ!!」

声の聞こえる方向から、周囲の人間が慌てて左右に避けていく。不自然に割れた人垣の間から、経帷子姿の男が走ってきているのが見えた。手には小刀らしいものを持っていて、それを滅茶苦茶に振り回している。口から泡を飛ばし、目は血走っている。そして後ろの人混みの更に向こう側から、「危ないから逃げてくださーい!」と大声で叫ぶ声がした。

『閻魔庁で裁判待ちをしていた亡者が、集団で脱走したそうだ』

ふと、斬島が昨日口にしていたことを思い出した。もしかしなくても、あの経帷子が逃げ出した亡者の、少なくともその1人なのだろう。あの慌てぶりを見る限り、脱獄とやらが順調であるようには到底見えないが……。

「あ」

ぼんやりと絵にならない逃走劇を見守っていた時緒だが、明らかに正気の目をしていない男と目が合ったことで我に返った。しかしそれは同時に、男にとっても僅かながら冷静さを取り戻した瞬間だったらしい。驚いた後、男はにやりと笑う。そして急に方向転換し、ぼうっと突っ立っていた時緒の方へと猛スピードで走ってきた。

――あ、これアカンやつや。

などと咄嗟に思ったものの、普段から散々従弟に「危機感がない」と言われている時緒である。反応は寝不足と先程の浮かれ具合もあって、普段より更に遅かった。遅かったので、男との距離はあっという間に詰められてしまい、そして、

「きゃああ!!」

誰かの悲鳴が聞こえた。時緒のものではなかった。悲鳴を上げるどころではなかった。

「騒ぐんじゃねえ! 騒いだらこの女ぶっ殺すぞ!!」

頭を鷲掴みにされ、力任せに地面へと叩きつけられた時点で、時緒は声も上げられずに意識を失っていたのだから。

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