暗き森にも光は射すか | ナノ


▼ 輾転反側

淡く茶色がかかった麻布に、針を通す。刺繍枠の中でぴんと張った部分に、1針ずつ、丁寧に。銀色の針が糸をつれて、綿よりも少しかたい布地を潜り、また出てくる。
針穴に通っているのは、鮮烈な印象をもたらす真っ赤な糸。もう少し細かく名前で称するなら、猩々緋、と呼ばれる色である。室町時代の武士達に特に好まれた色で、彼らはこの色の羅紗や天鵞絨を陣羽織に仕立てさせ、意匠を争ったそうだ。

『驚いたな』

その鮮やかな色をもって縫い上げるのは、この色の花びらを打ち上げ花火のように広げる秋の花。大きく反り返った細長い6枚の花弁と、まるで辺りに散る火花のようにも見えるおしべとめしべ。
彼岸の頃の花なのに、赤く燃え上がる炎を連想させる、華やかで妖しげな花。それを1針1針縫って作り上げていく。針を持つ手に、淀みやふらつきは無い。うっすらとチャコペンで描かれた下絵から多少はみ出しながらも、赤い糸は大輪の花を生き生きと形作ろうとしている。

『人の子が、何故こんなところにいる?』

一般的な呼称は彼岸花。異称も死人花、地獄花、幽霊花などと不吉な呼び名が多いこの花は、しかし一方で曼珠沙華とも呼ばれ、『天上の花』という意味を持つ。

『……の』

時緒は、この花がとても好きだった。まるで燃えているような花の、鮮烈な赤が好きだった。――否、好きになった。

『たすけてくれて、ありがとう』

あるときから、とてもとても、好きになったのだ。

「朝、かぁ……」

セットしていた目覚まし時計が、ぴぴぴぴ、と甲高い音を出す。時緒は針を持つ手を止めると、そのままテーブルの上に置いておいたそれのスイッチを切った。
短針と長針が7時を指している。朝日はとっくに昇っていて、カーテンの隙間からは柔らかな光が入り込んできている。時緒は側に置いていたリモコンを取ると、部屋の照明を落とし、そしてカーテンを開けた。

「ふぁ、あ」

大きな欠伸をして、身体をぐっと上に伸ばす。強張っていた筋肉を少しずつほぐす。少しばかり怠いが、これは仕方ない。
肩を鳴らしながら振り返ると、作りかけの刺繍と、側に置いたままの制帽が目に入った。時緒は少し迷った後、昨夜からずっと此処に置かれていたカーキ色のそれを手に取る。少しだけ寄っていた皺を、ぽんぽんと叩いて伸ばした。

「斬島さん……」

制帽の持ち主は、結局こうして夜が明けて朝が来ても、忘れ物を取りに来ることは無かった。とはいえ、彼が時緒の家を出たのは日付が変わる少し前くらいだったので、時間を考えれば当たり前のことかも知れないが。
来るかどうかも分からない、どちらかと言えば来ない可能性の方が高い相手を待って一夜明かす。少々馬鹿馬鹿しいことではあるが、何かしらの理由があれば、そのまま眠らず朝を待つのは、元々時緒の悪癖でもある。眠らないことによる不調はあるが、それよりも夢を見たくない気持ちの方が、ほんの少しばかり勝るのだ。

「んー」

とはいえ、丸1日起きていると流石に怠い。それでも1日の時間は限りあるので、出来ることはしなければならない。シャワーを浴びて眠気を覚まし、洗濯機を回し、朝ご飯を作る。糠床をかき回し、今日の分の野菜を取り、代わりに昨日買い置きしておいたオクラとキュウリ、それから何かで見て「美味しい」と聞いたゆで卵を沈めた。
そうしてやっと、テレビを見ながら簡素な朝食を食べる。画面の向こうでは、平日とは違うキャスターが、しかし似たような口調でニュースを読み上げていた。

『○○市で起きた一家5人殺人事件について。容疑者とみられる男の目撃情報が、現場から20キロメートル離れた、上院市上院町で複数見られました』
『警察は、目撃情報の出た場所から半径5キロメートルを警戒区域に指定、付近の警察署と連携し、捜査に当たっています』

茄子の糠漬けとご飯を一緒に食べつつ、ニュースのテロップを目で追う。土曜日とあって、ニュースの流れは平日より何処かのんびりとしている。

『現場となった自宅ですが、――さんはこの家で一人暮らしをしていたそうで、事件当日は、たまたま実家から家族が遊びに来ていたとのことです』
『容疑者とみられる男についても情報が寄せられています。どうやら――さんは、男からのストーカー被害を警察に相談するなど、事件前からトラブルがあったようですね』
『最新の情報によると、この男は大学時代、――さんとは交際関係にあったようで』
『復縁を執拗に迫る男と、それを拒否する――さんが言い争う場面を、近所の住人が目撃していたことも分かっています』

話はキャスターの解説から、心理学だかなんだかの専門家の意見・考察に映っていく。そのあたりで興味を無くした時緒は、リモコンを操ってテレビを消した。食事はもう終わっていた。
食器を洗い、食べている間に洗い終わった洗濯物を干す。最後に部屋を簡単に掃除し、ゴミを玄関前にまとめて置いた。

「……うん。大丈夫」

これで、朝やることは全て終わり。時緒は出かける準備をすべく、寝室に早足で戻る。
太い黒糸で刺繍された花の咲いた、風合いのあるロングスカートと、黒いリボンタイがついた白ブラウス。上には丈の長い、少々大きめのカーディガンを羽織る。
イラズの森を歩くときの、身体にフィットするタイプの服装とは正反対の装い。髪の毛も、いつものようなまとめ髪ではなく、首の後ろで1つに束ねるだけ。普段から醸し出されている緩い雰囲気が、それだけで更に強調される。

「行ってきます」

小さめのショルダーバッグに私物を詰め込み、ゴミ袋を持って外に出る。と、丁度そのとき隣の部屋の扉が開き、すらりと長い脚が伸びるのが見えた。

「あら時緒ちゃん、おはよう。早いのね」
「美麗さん」

シルエットの美しいグレーのスーツを華麗に着こなした美女が、朝日にも負けない眩しい笑顔を向けてくる。バリバリのキャリアウーマンにして、家事にも手を抜かない主婦という『ウルトラウーマン』な彼女は、今日も格好良くて素敵だ。デザイナーという仕事に羞じない、センスのあるファッションは見ていて眩しい。

「お仕事ですか?」

いつ見ても手を抜いた格好、というものを見せない美麗だが、仕事に行くときや社交場に出るときは、更にもうひと味違う。小首を傾げた時緒に優美な笑みを見せた『叔母』は、髪を耳にかけながら頷いた。

「ええ、ちょっとした打ち合わせ。クライアントは顔馴染みだから、多分すぐ済むわね。終わったら裕介とランチを食べに行くんだけど、良かったら一緒にどう?」
「ん……」

嬉しいお誘いだが、時緒は少し逡巡した。いつも持ち歩いているショルダーバッグの他に、手首にかけた小さな紙袋。そこには、斬島が忘れていった制帽が入っている。ちらりとその中に目を向けた時緒は、申し訳なさそうにふるりと首を振った。

「ごめんなさい、お昼はちょっと用事があって」
「あら、そうなの。じゃあ時緒ちゃんとはまた今度ね。代わりって訳じゃないけど、今日は裕介の友達に声をかけてみるわ」
「そうしてあげてください。てつし君たち、きっと喜びますから」

美麗のチョイスするレストランや料亭は、何処もお洒落で一流だ。裕介と異なり、ごくごく普通の一般家庭のてつしや良次は、『綺麗でかっこいい美麗母ちゃん』と『豪華で美味しい食事』のお誘いに滅法弱いのを、時緒はとてもよく知っている。

「あ、そうそう。また今度、で思い出したわ。時緒ちゃん、今日は何時頃に支度できるかしら? いつも通り18時前で大丈夫?」

ぽん、と手を打った美麗の言葉の意味が分からず、首を傾げる。その間に、通りがかったゴミ置きのスペースに分別済みのゴミ袋を捨てた。

「? 何かありましたっけ?」
「やだ。忘れちゃった? 時緒ちゃんにしては珍しいわね。ほら、今日の19時よ。覚えてないかしら?」
「今日の19時……? ――あっ!!」

ぐぐっと首を傾けた時緒だったが、やがて思い当たった『予定』に目を瞠る。今の今まで綺麗さっぱり忘れていたが、1ヶ月も前から組み込まれていたスケジュールだったことも、ついでに思い出してしまった。

「あらあら、ほんとに忘れてたのね。……大丈夫? 他の予定詰めちゃった?」
「……すみません」
「ほんとに珍しいわね。予定大丈夫? もしそっちを優先したいなら別に構わないわよ? 何だったら風邪を引いたってことにしても構わないわ」

別にそこまで気を遣うほどの相手じゃないし。と、エレベーターの降下ボタンを押しながら言う美麗は何処か辛辣だ。実際、変わらない微笑みを浮かべながらも、先程より瞳が冷えている気がする。
時緒はぐるぐると視線をあちらこちらに彷徨わせたが、やがておずおずと口を開いた。

「あの、ちょっと考えさせてください。というか、私1人じゃ決められないので……」
「本当に? 無理しなくて良いのよ?」
「大丈夫です。元はといえば、忘れてた私が悪いんですから」

ふい、と視線を逸らす時緒は何処までも気まずげだ。珍しい姪っ子の様子が少しばかり面白かったのか、美麗はくすくすと笑っている。笑い事でないのは時緒だけだ。

「早く地獄堂行かなきゃ……」
「? 何か言った?」
「あ、いえ。独り言です。ごめんなさい」

無意識に、紙袋の取っ手をぎゅっと握りしめる。勝手に緊張した空気をぶち破るように鳴ったベルの音と共に、エレベーターがようやく到着した。

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