暗き森にも光は射すか | ナノ


▼ 殷鑑不遠

「斬島さん?」

ふと、斬島が顔を上げた。瑠璃色が柔らかな軌跡を描いて、ベランダの方へと向かう。カーテンの閉め切られたそこを見透かそうとするかのような視線に、時緒は首を傾げつつも立ち上がる。そして念のためリモコンで少し灯りを落とし、カーテンをそっと引こうとした。
その途端、

――ガツンッ!

「わっ」

それは、堅い木の棒か何かで、金属を引っぱたいたような音だった。何事かとカーテンを全開にすると、真っ黒な夜空に溶け込むように、真っ黒な何かがもぞりと蠢いた。

「烏……?」

ベランダの手すりに、まるで置物のようにして留まっていたのは、文字通り濡れ羽色の羽をした黒い鳥だった。一見して烏。しかしその大きさは、都心で見かけるものよりも更に一回り近く大きい。そして何より異質なのは、爛々とした金色に輝く、大きな目。しかも『一対』ではなく、『1つ』だけ。1つだけの目玉は当然巨大で、顔の部分の半分近くを占めているようだった。
どうやら、今の音はこの烏の仕業らしい。手すりに留まった時の音なのか、それともその嘴で何処かを突っついて出した音なのかは、正直分かりかねたが。

「どうした」

イラズの森の怪異が憑いてきてしまったのかと少々慌てた時緒だったが、その後ろから覗き込んできた斬島が落ち着いたものだったので、比較的すぐに冷静になった。
「どうした」というのは、時緒ではなくその烏に言ったらしい。斬島がそっと伸ばした手の甲に、バサリと羽音をさせ、件の烏が留まる。この大きさなら結構な重みがあるだろうに、斬島の手は少しも沈んだりしなかった。
ちょいちょいと烏が前足を突き出す。そこには白い紙が細く畳まれ、固結びで結ばれていた。丁度、神社の木に結びつけられたおみくじを彷彿させる。

「あ、斬島さん。私やりますよ」

片手で解きにくそうにしていたのを見かねた時緒が申し出、代わりに紙の結び目を解きにかかる。それは随分硬く結ばれており、結び目の小ささもあって少々苦戦せざるを得なかった。

「谷裂だな……」

時緒の頭の上で、斬島が溜息を吐いた。たにざき、というのは、先程聞いた斬島の『家族』の名前だった筈。こんな紙切れ1枚の結び方で分かってしまうものなのかと、思わず斜め上の感想を抱いてしまった時緒である。

「解けた……!」

そこから1分近く苦心して、ようやく結び目は解けた。やっと片足を解放してもらった烏が、やれやれとばかりに身体を震わせる。かと思えば、それはすぐに大きく羽を広げ、バサバサと慌ただしく何処かへと飛び去っていった。

「……伝書烏?」
「ああ、あいつらは現世へも地獄へも自在に飛べる」

伝書鳩ではなく、伝書烏。それも一つ目とは、これも『地獄らしさ』なのだろうか。そもそも所謂『普通の烏』が地獄にいるのかも分からないので、時緒は結局そんな疑問を口にすることはなかった。
きっちり細く畳まれていた紙を広げた斬島は、凪いだ湖面の如くだった表情をきゅっと引き締めた。今まで特段緩んでいたとも思わなかったが、雰囲気もぴんと張り詰めたそれに変わる。結局のところ無表情なのだが、それでも真一文字に結ばれた口元が、少なくともその紙の内容が『吉報』ではないことを物語っている。
そのまま丸めて捨てても良いだろうに、彼は紙をまた元通りに畳むと、流石に結ばずに制服の内側へとしまい込んだ。

「何かあったんですか?」

駄目元で聞いてみることにした。流石に斬島宛の手紙(だと思われた)を覗き見るのは躊躇われたので、当然尋ねる以外で時緒に内容を知る術はない。

「閻魔庁で裁判待ちをしていた亡者が、集団で脱走したそうだ。捕縛命令が出たが、待機していた獄卒だけでは手が回らんらしい」
「えっ」

あっさり返ってきた答えとその内容に、ぽかんと時緒の口が開く。
鋭く踵を返した斬島の手が、側の壁に立てかけておいた刀を取る。そしてそのまま床を軽く踵で叩き、昨日と同じ『穴』を広げた。昨日は、律儀にも『玄関』を出てから開けていたものだ。

「悪いが、今日は此処から行く」
「? はい」

斬島は気が急いているようで少々早口だったが、僅かながら決まり悪げでもある。どうやら、室内で『穴』をあけるのは、彼らの間ではマナー違反に当たるらしい。しかし、残念ながら獄卒の基準は分からないので、時緒は別に気にしない。

「それよりお気を付けて。また明日お会いしましょう。……?」

時緒はぱたぱたと両手を振った。急ぎの用であることは十分分かったので、これ以上気を遣わせてはなるまいと思われた。
なので、佇む斬島に何処か違和感を覚えながらも、それを口に出すことは躊躇われた。――その判断が誤りだったと分かるのは、この僅か十数秒後である。

「騒がせてすまなかった」

律儀に目礼した後、颯爽と『穴』を潜っていく斬島の礼儀正しさには頭が下がる。向けられた背中に、深々とお辞儀をしてしまったのは本当に無意識だった。

「……獄卒って大変だ」

斬島の話のおかげですっかりアットホームなイメージがついていたが、彼らは『地獄の鬼』なのだと、もう一度認識を改める。
亡者が逃げた――何でもないように斬島は言ったが、要するに脱獄ということだろう。大変なことだ。平和な現代日本でだって、たった1人でも受刑者が逃げたとあっては、上へ下への大騒なのだから。
しかしこの次元の話ならばいざ知らず、地獄で逃げたところで所詮そこは地獄以外の何物でもなく、しかも獄卒という本物の『鬼』が追いかけてくる文字通りの鬼ごっこに強制参加させられるわけだ。その逃げた亡者とやらは、逃げて一体どうするつもりなんだろうか。

「怖いものなのかな……」

死後の裁判――ギリシャ神話やエジプト神話、そして世界三大宗教やヒンドゥー教にも、その存在は語り継がれている。裁判の形式や罪の比重、裁判を受けるタイミング、刑罰や刑期は教義によって様々であるが(そして、キリスト教やイスラーム教の場合はあくまで『最後の審判』であるが)、『生前の行い』によって死後の扱いが決まるという部分は共通している。
今となっては殆どが『迷信』『夢物語』『神話』で片付けられているそれが、実際に存在すると分かったときの恐怖は、筆舌に尽くしがたいのだろう。『お天道様が見ている』という古来よりの戒めを、真面目に信じなくなった弊害かも知れない。

「あっ!」

取り敢えず、片付けをしよう。窓を閉め、カーテンを引いてダイニングテーブルに目を向けた時緒は、目に映った『それ』に思わず目を剥く。

「そっか、これが無かったんだ……!」

テーブルの端にそっと置かれていた『それ』を手に取る。防人色の布地、黒いつば。赤い帯に、金糸で刺繍された『眼』のような徽章。

「き、斬島さーん……」

お帽子忘れてってますよー、なんて今更呟いたところで、とうに帰ってしまった彼には届かない。時緒はがっくりと項垂れるしかなかった。

[ back to index ]

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -