暗き森にも光は射すか | ナノ


▼ 天涯孤独

長い髪を束ねて結い上げ、ヘアゴムやピンでまとめる。それを更にキャスケットの中にしまう。手入れはしているものの、毛先を揃えたりしているだけで済ませていた時緒の髪は、既に腰を通り越して脚の付け根まで伸びている。重くないか、鬱陶しくないかと聞かれることは多いが、もう慣れてしまっていて今更重いも鬱陶しいもない。
だが、やはり狭い場所を動き回るときは邪魔になるので、こうしてまとめておくのが一番合理的だ。特にイラズの森のように、殆ど手入れもされていない森を歩くときは。

「よし」

チーン、とベルの音が鳴り、エレベータのモニターが『1F』を表示した。クラシックな雰囲気のそれを出れば、やはり高級感のあるエレベータホールが視界に広がる。

「行ってらっしゃいませ」

品の良い笑みを浮かべたコンシェルジュに会釈を返して外に出る。外の空気に冬の名残はなく、七分袖のTシャツにパーカーだけでも全く寒くないのが有り難かった。

「斬島さん」

ホールの中で待っていれば良いものを、歩道の端で直立不動で立っていた青年は、相変わらず海の底のような色の、酷く凪いだ瞳をしていた。小さく目礼だけした彼に、時緒もぺこんと頭を下げる。

「お待たせしました。行きましょう」
「ああ」

一般家庭の多くが夕食を取り始めるだろう、午後の7時過ぎ。この辺りが一番イラズの森付近から人が消える。小学生などは夕方を過ぎれば絶対近づいてこないのだが、5時や6時だと、怖いもの知らずの高校生などがちょくちょく屯していたりするから困りものだ。

「えーと、じゃあ昨日出たところからですね。危険度って意味では昨日と大して変わらないと思います。強いていうなら……そうですね、此処がちょっと危ないかも」

歩くスペースを落とさないまま、『イラズの森』の地図から、ある1点を指さす。朱色で印が刻まれたそれは、磁場の強い場所や厄介な怪異が棲み着いている場所を指す。

「此処は?」
「とある事件の現場です」

そこまで奥深くない位置に、くっきりとつけられた印。まるでそれが痛ましい傷口でもあるかのように、時緒の指がそこを撫でる。

「イラズの森が元々処刑場だったのはご存じですか?」
「ああ、資料で確認している。この地を治めていた豪族が、政敵だけでなく、時に領民を戯れで殺し、その骨をばらまいたと」
「そうですね。それが正しい歴史です。だからこそ、この森はとても業が深い」

昨日乗り越えたガードレールの前に立ち、また同じように跨いでいく。時緒は両手をついてゆっくりと、斬島は軽く踏み越えるように。相変わらず薄ら寒い、しかし何処かどろりとした空気を伝えてくる森は、決して侵入者を歓迎しない。

「この森は底なし沼みたいなものなんです。元々そういう場所になりやすかったところに、おあつらえ向きに無数の怨念がこびりつくような歴史が出来た。沢山の怪異や神霊や妖怪が生まれました。そういう輩は良いんです。この森が住処だから、何の問題もない。でも、」

ふい、とおもむろに視線を脇にずらす。既に怪異はあちらこちらから目や手を出して来ているが、襲ってくる様子は(今のところ)見られない。
半ば土と同化している落ち葉を踏み越え、ぼっこり出っ張った根っこを跨いでいくと、不意にぼとん、と何かが足下に落ちてきた。斬島のランタンに照らされたそれは、ぎざぎざの歯が生えた口を開けた、巨大なミミズのような化け物だった。

「邪魔だ」

キィ、と悲鳴を上げて噛みついてこようとしたそれを、刀が両断する。鮮やかな剣閃。無駄のない手際。ほう、と時緒の唇から感嘆が漏れる。

「綺麗ですねえ」
「ああ、自慢の相棒だ」

しみじみと呟けば、さも当然のように返された。別に刀だけを賞賛したつもりはなかったのだが、別に素人の時緒に褒められたところで、斬島は嬉しくもないだろう。少しだけ苦笑するに留め、改めて手元の地図に視線を落とす。

「何処まで話したっけ……ええと、そう、底なし沼だって言いましたよね」

くるくると、時緒の人差し指が円を描く。

「さっきの『事件』、もう8年も経つけど、町の大人の人たちはきっと皆覚えてます。被害者は小学3年生の女の子で、加害者はその母親。とても哀しい事件でした」
「心中か」
「はい」

忌むべき歴史のある土地ではあるものの、上院町は基本的に平和なところだ。だからこそあの事件は人々の記憶に良く残った。連日何処ぞのマスコミが取材だ何だとインタビューをしまくり、訳知り顔のコメンテーターが『心の闇』だの『離婚の問題』を宣っていた。
心を病んでいた母親と、何の罪もない娘。悲劇性の高いその事件は、世間の注目を大層集めたものだった。

「母親が何故、この森を最期に選んだのかは分かりません。森の業が母親を呼んだのかも知れないし、きっと『普通の』状態じゃなかった母親には、この血生臭い森に何か感じるものがあったのかも知れません。兎にも角にも、その事件は起きてしまって、結局、被害者も加害者も死んでしまいました」

底なし沼のような怨念が渦巻くイラズの森に、全く別種の、余所から来た怨念が起こした事件。それも、幼い子供が犠牲になった無理心中。
死んででも楽になりたい。死んだら楽になれる。キリスト教では否定される自殺は、日本では兎に角垣根が低い。その一方で、絶対に死んだら駄目だと言う人がいる。それに対し、死ぬことも選択肢の1つだと反論する人がいる。
1つ確かなのは、『死んだら全て終わり』なんてことは、万に一つも無いということだ。

「因果応報、自業自得……重たい言葉ですよね。色んな人が色んなところでそう言うのに、本気では信じてないんです」

『死』というものを人間は重んじる。死ねばその先に何があるのかを知らないからだ。だからこそ、あらゆる宗教では『死後』を定義する。死を司る神がいて、どんな世界を統治しているか。悪人にはどんな罰が待っていて、善人はどんな楽園で暮らすことが出来るか。
だが、それは真っ直ぐ『あの世』に行ければの話だ。

「こんな森で『あんなこと』をして、綺麗に終われるわけがない」

自らの未練で、怨念で、或いは業で、死者はいとも簡単に、迎えの光を見失う。時には死んだことにも気づかないまま、永劫に近く彷徨い続ける。そして、時には人に害をなす。
特にこんな、業の渦巻く場所で死んだ魂は。

「母親の亡者が、今もいるのか」
「……いいえ」

ゆるり。時緒は首を横に振る。

「母親はいません。もう成仏しています」

勝手なものですよね。殺すだけ殺して、自殺して、母親は満足してしまった。

「あの事件のことを思い出す度に考えます。――家族って、何なんだろうって」

斬島さんはどう思います? と、戯れのように時緒は問うた。答えなど特に期待していなかった。そもそも、地獄の住人に家族の定義があるのかも分からない。答えがないなら、聞かなかったことにしてくれ、とでも言うつもりだった。

「人間の定義する『家族』は分からんが」

しかし時緒の予想に反し、斬島は然程間を空けず口を開いた。ご丁寧に『人間』と自分達を区別した前置きをした上で、何でも無いように、それこそ明日の天気の話でもするかのように、その口調は平常と変わらなかった。

「お前が大切だと思う者が友人や恋人で括れないのであれば、それは『家族』なんじゃないのか?」
「……」
「友人という言葉に違和感があっても、恋人としての縁がなくとも、大切に想う相手はいるだろう。そして、その相手が同じように自分を『想って』いてくれれば、それでもう十分に家族だ」
「『想う』、ですか」
「少なくとも、俺はそう思っている」

揺るぎない言葉だと思った。斬島らしい、真っ直ぐな言葉だとも。

「斬島さんには、家族がいるんですね」

それもきっと、とびきり素敵な家族が。

「素敵かどうかは分からん。俺は嫌いじゃないが」
「えー、そこは自信持ちましょうよ。……でも、いいなあ」

淡い色の瞳を、とろりと蕩かせる。そうして浮かべたのは、決して泣き笑いではない。
ただただ、寂しい笑みだった。

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