暗き森にも光は射すか | ナノ


▼ 死生有命

それはとても、柔らかい世界だった。
日差しも、吹き抜ける風も、そして身体をそうっと抱える腕も、何もかもが柔らかくて、温かかった。

『見て、あなた。時緒ちゃんが眠っちゃったわ』

すぐ側から振ってくる声は、明るく、けれど寝た子を起こさないように密やかで。

『ああ本当だ。……可愛いなあ、流石僕の娘だ』
『あら、私の娘でもあるでしょう』

低い声、高い声。男の声と、女の声。頬を撫でる、少し硬い指の腹。髪の毛を避ける、細い指先。やがて聞こえてくる子守歌は、涙が出るほど優しくて。

『もう、今日はお出かけするって言ったのに。……着くまでに起きるかしら』
『どうだろうね。子供は寝るのが仕事だから』
『そうよね。折角だから、色々見せてあげたいんだけど』

心なしか残念そうな女の声に、男の声がくすくす笑う。

『君はあそこが大好きだから、余計にそう感じるんだろうね』
『そりゃあそうよ。貴方と初めてデートした場所だもの。……ね、そろそろ出ましょう。早くしないと道路が混んでしまうわ』

そうだね、と相槌を打つ声。ふたりはゆっくりと歩き出す。
このとき彼らが何処へ向かおうとしていたのか、時緒は知らない。彼らはにこにこと微笑み合いながら、家族用の小さな車に乗り込んでいく。
そして、

『さあ、行きましょうね、時緒ちゃん』

バタン、と車のドアが閉じる重い音。エンジンのかかる音と振動。走り出す車。少しずつ流れていく景色。そして最後に……耳を劈くような、急ブレーキの音。
――時緒の夢は、いつもそこで終わる。

「――……」

目を覚ましたとき、そこが何処であるのか分からなくなるのはいつものことだ。ぱちぱちと瞬きして、前、上下左右に順繰り視線を合わせる。瞼を閉じていたせいで開ききっていた瞳孔が少しずつ収縮し、入ってくる光量を抑えていく。
ぱちん、ともう一度瞬きをすれば、目はすっかり朝の光に慣れていた。そしてその頃には、此処が『自分の部屋』であるという事実も、すっかり思い出している。ゆっくり起こした身体は、まだ少し力が抜けている。
ふあ、と欠伸を一つ。大きく息を吸って吐いて、そっと目を閉じる。夢の余韻で少しばかり細波が立っている心を落ち着けるべく、深い呼吸を繰り返す。祈りを捧げるにしては何の形式も整っていないそれは、強いて言うならば黙祷に近い。

――とくん。

「、……」

不自然に一つ、心臓が鳴った。目を開ければそこには、しかし、何の変哲も無い自室の風景。東から差し込んでくる朝日がやや眩しい。レースのカーテンを透かし、それは当たり前のように部屋の奥まで侵入している。
そっと胸に手をやれば、規則的に脈打つ心音を感じる。あの一度だけの不自然な高鳴りは、もう影も形も無い。それをしかと確認した時緒は、ようやくベッドから降りた。

「大丈夫」

そう独りごちても、誰も聞いてなどいない。分かっていて口に出すのは、聞いていて欲しいのが他ならぬ自分自身だけだからだ。
『これ』は、自分だけが知っていれば良いこと。頼れる叔母夫婦にも、賢い従兄弟達にも口を閉ざして、しまい込んでおくべきことだ。

「まだ、大丈夫」

もう一度、言い聞かせるように呟いてから、今度こそ時緒は部屋を出た。独り言の融けた部屋には相変わらず、何の気配も音も無い。

「つめたっ」

洗面所に行って、顔と手を洗い、歯を磨く。洗濯物は昨日のうちに片付けてしまったので、今日は洗濯機は回さない。代わりに布団でも干そうかと考えたところで、そういえば昨日の洗濯物を取り込んでいなかったことを思い出した。
慌ててベランダまで出れば、果たして昨日の朝干していたタオルやシャツ、それから下着の類が、そのまま風に揺られている。

「あーあ……」

忘れてたぁ、と朝っぱらから脱力しながらも、何とかベランダに出て洗濯物を取り込んでいく。昨日やる予定だったことを、意図せず今日に引き延ばしているというのは、何というか、妙にダメージが大きいのだ。全く油断していたところに、無駄に力強いボディブローを食らう感覚とでも言えばいいのか。
もたもたと洗濯物を取り込み、畳んでいく。元々量は少ないので、それはすぐに片付いた。自室のクローゼットにしまいに行き、そこでやっと人心地つく。
何だか朝から疲れてしまった……が、あまりのんびりはしていられない。昨日の夕食が殆ど残らなかったので、新しいおかずを幾らか作らなくてはならない。
いちいち時計を覗き込むのが面倒なので、朝は大体テレビを付ける。目当ては天気予報と、画面の左端に必ず表示されている現在時刻である。ややエンタメ色の強いものを選択して付けたが、画面の中ではリアルタイムの時事をアナウンサーが読み上げていた。
――「一家5人殺害、容疑者情報公開へ」という物騒なテロップが画面に表示されるのを横目に見ながら、時緒はキッチンの方に向かう。

『××県○○市で、会社員の女性とその家族4名が殺害された事件について、新展開です』

備え付けの水道でもう一度手を洗い、戸棚を空ける。そして、片手では少々持ち上げるのに難があるホーローを取り出した。

『事件が発覚したのは2日前。××県○○市の民家で、この家に住む――さんと、そして――さんの両親と兄弟2名が、何者かに殺害されているのが発見されました』

蓋を開ければ、塩気のある独特の香りが寝起きの鼻を突く。決して刺々しいわけでもないそれは、けれど少し嗅ぐと不思議なくらい目を覚まさせてくれる。時緒に珈琲を嗜む習慣はあまり無いが(珈琲嫌いというわけでもないが)、これがあれば別にカフェインの摂取は必要無いと、半ば本気で思っているくらいだ。

「んしょ、っと」

手袋もしない手をホーローに突っ込む。底までぐっと入れて、中身を手のひらで受けて混ぜる。ぐるぐる、ぐるぐると、底の糠と上側の糠を入れ替えるように、何度も。ついでに漬けて置いた蕪と干し椎茸を掴みだし、裏返したホーローの蓋に置く。一緒に漬けた人参は、もう少し時間が必要なのでそのまま。

『警察では事件に関与していると思われる、○○市在住の無職、――容疑者の顔写真を公開し、情報提供を呼びかけています』
「……」

半分くらい聞いていなかったニュースにふと意識を戻せば、そこには酷く痩せた、とても神経質そうな印象の男が映っていた。目元には濃い隈があり、分厚いレンズの黒縁眼鏡をしている。肌の荒れ具合が酷いのは、ストレスのせいだろうか。

『それでは此処で、現場の状況を見てみましょう』
『スタジオからは中継で等々力記者に繋がっています。等々力さーん! ……』

画面はあっという間に切り替わり、男の写真から、閑静な住宅街の様子を映し出す。時緒は再び糠床に視線を落とし、そのまま暫く他に移すことはしなかった。

[ back to index ]

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -