暗き森にも光は射すか | ナノ


▼ 神出鬼没

誰かを家に入れるということを、時緒はあまりしない。
友人も多いし、隣に住んでいるのは叔母一家だ。しかし友人達は時緒に遠慮してあまり遊びには来ないし、叔母一家も時緒が家に招待するより、自分達の部屋に時緒を招くことの方が多い。セキュリティのしっかりしているこのマンションには押し売りの類も来ないので、来訪者は兎に角少ない。そして時緒自身も、不思議なことに、さほど積極的に誰かを招待しようとしたことが無い。それこそ隣の従兄弟とその親友達に強請られて、何度か部屋を貸したことがある程度だ。
そういうわけで、そもそも「人が来る」ということ自体が、時緒にとってはちょっとした非日常だった。

「どうぞ、上がってください」

カードキーで開けた扉を支えたまま、先に斬島を中へと促す。そして、靴を脱ぐか否かで少々迷ったらしい彼に、履いたまま上がってくれて構わないと告げた。

「そこのマットで靴の裏だけ拭いてください。それで十分ですから」
「……分かった」

がしゃん、と音を立てて扉を閉める。そして、靴箱の上の写真と目を合わせる。

「ただいま」

やんわり微笑む唇から零れた挨拶。それは時緒にとっては日常で、習慣である。

「それは?」
「両親です。……ここに私もいますけど」

尋ねる斬島に、時緒は写真立てごとそれを取って見せた。まだ若い男女(黒髪がお揃いの美男美女。時緒とは正直似ていない)が、この上なく幸せそうに微笑んでいる。男よりも頭一つ低い女の腕には、赤ん坊を包んでいるらしいおくるみが1つ。
やや色褪せた写真と、そこに映る時緒(らしい赤子)の幼さ。それだけで、斬島は何となく事情を察したのだろう。小さな声で「すまない」と謝罪された時緒は、思わず苦笑した。

「常世の方に気遣われるとは思わなかったなあ……っていうのは冗談ですけど、気にしないでください。もう昔過ぎて、正直あんまり覚えてないんです」

時緒が所謂『親無し』になったのは、まだ自身が3つの時だ。顔はさておき、両親の声だとか、仕草だとか、そういうものは殆ど記憶に残っていない。父も母も、良く自分を抱き上げてくれていたような気がするが、その手の感覚ももはや曖昧だった。
それでも心なしか苦い顔をする斬島に、洗面所の場所を教えて手を洗いに行って貰い、時緒は一足先にリヴィングに向かった。キッチンに入って、そちらの水道で手を洗う。

「うん、よし」

出かけ前に炊いておいたご飯は、当然だが既に炊き終わり、保温状態になっている。味噌汁(まだ出汁用の昆布しか入っていないが)と肉じゃがの鍋に火をつけて、残ったコンロに小さめのフライパンをセットした。冷蔵庫を開け、見つけておいたソーセージと、作っておいた出汁巻き玉子を取り出す。玉子をまずリヴィングのテーブルに置き、キッチンに戻る。熱を持ったフライパンにソーセージを入れ、次いで足下の戸棚を開け、しまっておいた糠床を出した。

「ん、しょっと」

米糠の、独特の香りが鼻腔を擽る。「くさい」と嫌う人もいるようだが、時緒はこの匂いが割と好きだった。手に匂いがつくので友人からは「ババ臭いよ」と笑われることもあるが、そんな友人達も、たまに時緒が持ってくるキュウリの糠漬けは喜んで食べるので、特に問題にはならない。

「手伝うか?」
「いえ、大丈夫です。座っててください」

洗面所からこちらに来た斬島にそう言って、キャベツとキュウリの糠漬けを洗う。付いていた糠を取り払い、手頃な大きさに切る。皿に盛りつけ、2人分のお椀と茶碗を出し、糠漬けと、ソーセージを別の更に盛って運ぶ。もう一度キッチンに戻って、今度は味噌汁の鍋に豆腐を入れ、味噌をといた。

「はい。斬島さんはこっちどうぞ」

最後にご飯と、出来たばかりの味噌汁をよそって運ぶ。
粗食ですけど。いや、そんなことはない。そんな他愛ないやりとりをし、「頂きます」と2人で口を揃え、手を合わせた。

「お口に合えば良いんですけど……食べられます?」
「ああ。……美味いぞ」
「ほんとですか? 良かった。お代わりもありますから」

男性の食べる量というのがよく分からないので、おかずも白米も自分の1.3倍ほど多めに盛っておいた。が、世の男性がそうなのか、それとも斬島が単に大食漢なのか、彼の分の皿はどんどん量が減っていく。

「肉じゃが、少し甘いな」
「そうですか? もう少し醤油多い方が良かったかな」
「いや、これはこれで美味い。あと、この糠漬けの塩加減が良い。キャベツも糠漬けになるんだな」
「割と何でも漬けられますよ。キャベツは芯が硬いから、ちょっと上級者向きですけど」

もぐもぐと迷いなく箸を動かす。斬島の箸の持ち方は綺麗だった。しかし食べるスピードが速い。それはもう、速い。

「すまないが」
「はい、ただいま」

肉じゃが2杯目。糠漬けは既にキュウリがごく僅か。味噌汁の椀も既に空だ。そして白米に至っては大盛りで2杯目。出汁巻き玉子は既に無い。ご飯をよそって戻ると、ソーセージが残り3本になっていた。先程まで8本はあった筈なのだが。

「追加を焼きましょうか」
「いや、大丈夫だ」

どうやらソーセージは箸休めらしい。あ、もう全部ない。
時緒が夕飯を作る場合、白米は多めに炊くし、主菜も副菜も余るほどつくる。明日の朝ご飯やお弁当のおかずに回すからだ。だから「多すぎたか」とは後悔しても、「足りないかも知れない」と危ぶんだことは無い。
……無かったのだが、今回は本当に足りないかも知れない。2杯目の味噌汁をよそった時緒は、思わず炊飯器の残りを何度も確認してしまった。

「ご馳走様でした」

しかし幸いというか、最終的に斬島の食事は、時緒の用意していた範囲で終了した。白米大盛り3杯、味噌汁2杯、肉じゃがはかろうじて半人前残ったが、他の副菜は残りゼロ。漫画であれば『からっ』という効果音がついているに違いない。

「……はい、お粗末様です」

ほっと息を吐く。時緒はというと、斬島の食べっぷりのお陰で普段の8割程度を胃に収めただけで終わってしまった。「見ているだけでお腹いっぱい」とはこういうことなのかと身をもって知った次第である。

「すまない。つい遠慮無く食べてしまった」
「いえ全然。寧ろ、何か清々しかったです。有り難うございます」

確かに少し疲れたが、あれだけ沢山食べて貰えるというのは、見ていてとても気持ちが良かった。心地の良い倦怠感、とでも言おうか、何とも不思議な気分である。作った側も冥利に尽きるというものだ。

「斬島さん、お茶は煎茶で良いですか?」
「ああ」

なら、お茶請けは豆大福にしよう。丁度隣から分けて貰ったものがあった筈だ。と、時緒がお湯を沸かすべく薬缶に火をかけた、丁度そのとき。

――ぴんぽーん。

「……?」

不意に鳴り響いた、インターフォンの音。来客を告げるそれは日常的に自然な音だが、しかし現在時刻はそろそろ11時を回ろうとしている。こんな時間に尋ねてきそうな者など、流石に心当たりは……

『時緒姉ー! いるかー!?』
『起きてんだろー?』

「……あー」

あった。

「どうした?」
「あ、斬島さん……」

これはもしかすると、もしかするかも知れない。へたに誤魔化すのは得策ではないと判断した時緒は、「すみません」と先に謝ることにした。

「何がだ?」

斬島は首を傾げる。当然の反応だ。しかし、どうにも説明しづらい。時緒は取り敢えず玄関に出て、扉を開ける。

「おっ、やっほー時緒姉!」
「遊びに来た!」
「あの兵隊みたいなのと一緒にいるんだろ? 何処行ってたんだ?」

するとそこには、モニターに映っていた通り、涼しげな顔をした年下の従兄弟と、その親友2人がどや顔で待ち構えていたのだった。

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