暗き森にも光は射すか | ナノ


▼ 蝸牛角上

暗い森の中を、2人で歩く。いつの間にかカンテラを取り出していた斬島の後を、地図を広げたままの時緒が数を離れたところから追った。
時折、落ち葉や小枝を踏む音や、何処かで猛禽の類が鳴いているのが聞こえる。しかしそれ以外ではほぼ静寂に満ちており、静かすぎて逆に鼓膜が痛くなりそうだ。自分の吐息が、心音が、やけに大きく聞こえる。

「斬島さん、ちょっと進路ずれてます。もう少し右寄りです」
「分かった」

道順については時緒の一存に任されているので、気が抜けない。1人でない分安心感もあるのだが、それだけミスも許されないわけだから、別の意味で緊張してしまう。時緒も特別お喋りではないが、斬島はそれより更に無口だ。必要なこともないのに口を開く筈も無く、2人の間には時折の事務的な会話以外存在しない。

『ケケケケ……』

鬱蒼と生い茂る木々のせいで、月明かりもまともには届かない中、響いたのは嗤い声。蛙か猿のそれに似た音が、間違いなく『嗤い』と気づいたのは、一緒に突き刺さった視線のせいだろうか。

「わっ」

何となく手で触れようとした木の幹に、ぎょろりと目玉が浮かんだ。人間の何倍も大きい、血走った白目と開いた瞳孔は酷く不気味である。うっかり思いっきり手で触りかけてしまった時緒は、流石に少し驚いて手を引っ込める。すると目玉は愉快そうに三日月型に細まり、『ケケケ!』と先程よりも楽しげな嗤いとともに消えた。
しかし辺りを見回せば、同じような目玉が闇に幾つも浮かんでいる。他にも、木の陰と同化するように、うぞうぞと動いている黒くて暗いナニカ。異様に紅い眼をこちらに向けて、ぐるりと首を回転させる、ミミズクの『ような』鳥。

「大丈夫か?」
「はい」

幸いにして木々の間の間隔は広いので、無理に隙間を通ったり、身体を屈めなければならないような場所はない。それでも絡み合った木の根や落ちている草木のせいで、足場はあまり良くはない。
カンテラのオレンジ色の光は少しばかり心許ないが、斬島の歩みに迷いはなかった。慎重さは見られるものの、不必要に周囲を窺うようなことはしていない。まるで慣れた場所を見回っているかのような足取りの確かさは、彼の気質か、はたまた獄卒としての経験から来るものか。

「この辺りからちょっと磁場が強くなってます。……襲ってくるかも知れないので、気をつけて」
「分かった。……!」

言うが早いか、腥い風が鼻腔に嫌な臭いを吹き込んでくる。それに加えて、何か酢の物よりも更に強い、不快なまでの酸っぱい臭い。……腐臭。

――……チャ……ピチ……ッ。

ぞわりと耳の裏をなで上げるような、湿った音が耳朶を叩く。

――ピチャ……チュ……ピチャ、ピチャッ……。

水たまりを踏むような音だと思ったのは一瞬だけだった。『舌鼓を打つ音』だと、時緒はすぐに認識を改める。音がするのは前方。カンテラの明かりの、まだギリギリ届かない先。時緒が目をこらせば、木々の闇に紛れて、確かに何かが蠢いている。
時緒は静かに地図を閉じ、パーカーのポケットに手をやる。時を同じくして斬島が鯉口を斬った。
一歩、また、一歩。蠢くものたちの陰が少しずつハッキリとしてくる。水音と腐臭も強くなる。もう一歩。距離約7メートル……6……5……4……。

「……ギィ?」

『食事』に夢中になっていた陰が、ふとその動きを止めた。カンテラの明かりでかろうじて分かる、黒々とした体毛に包まれた塊が2つ、否、3つ。まずは1対の目玉がこちらを捉え、ついでもう2対。しかし此処での『1対』は『2つ』ではなく、『4つ』だ。しかも付いている場所がバラバラで、大きく付き方が歪んでいるものもある。
大きさは大型犬くらいだろうか。しかし姿形は犬のようでもあり、何処か狐にも似ている。耳はちゃんと2つで1対だが、丸みはない。猫のように見えなくもない。大きく裂けた口からは、ぎざぎざの歯。茶色っぽい唾液が溢れている。

「食事の邪魔をする気は無い」

獣までなら見逃してやる――斬島が淡々と言う。
見れば、『奴ら』の足下には、真っ赤な血に汚れ、既に原型も分からなくなっている獣が転がっている。大きさからすると、野兎か、それとも小さい狐くらいだろうか。嗚呼、と、音にならない吐息が時緒の唇からも漏れた。
ぐるるる……と、唸る声が3つ響きだした。

「……俺達を喰うだと?」

『喰う』――その単語と、わき出た殺気に、緊張が全身を駆け巡る。うなり声が更に大きくなり、先程よりも濃い腥さが辺り一面に立ちこめる。
時緒はこくり、と喉を鳴らし、ポケットから中のものを掴んでいた右手を抜き去った。

「来るぞ」
「はい」

言うが早いか、3匹(3体? 3頭?)が一斉に飛びかかってくる。1体は前に立っていた斬島へ、もう2体は、体格が小さい時緒の方へ。そこらの犬となど比較にもならない俊敏さでかかってくるケダモノの首を、真っ直ぐ抜き放たれた刀が断ち切った。
「ギェッ」と聞こえたそれは、蛙の潰れたような声だった。斬島は返す刀で自分の脇をすり抜けようとしたもう1匹を斬るが、脇腹を抉っただけで動きは止められていない。大きくあぎとを開いた2匹めがけて、右手で結んだ刀印を向ける。

「禁ッ!」

ケダモノの鼻先で火花が散る。音の大きさはちょっとしたネズミ花火を爆発させた程度だが、それでも油断していたケダモノには不意打ちともあって効いたのだろう。2匹揃って怯えた犬のような声を上げ、もんどり打って倒れ込む。
足下に倒れ込んだ手負いの方を、今度こそ斬島の刀が切り捨てた。

「そこ!」

やや遠くに吹っ飛ばされた方に向けて、時緒の霊符が飛ぶ。しかしそこは獣の本能とでも言おうか。最後に残った1匹は驚くほどの俊敏さで飛んだ札から、そして札を中心とした爆撃から逃げると、形勢不利と見るや否や、仲間も獲物も放って何処ぞへと逃げていった。

「あっ」

一端ああして逃げに出られてしまえば、人間の足ではあれには追いつけない。そしてそれは、『人間のような姿』の獄卒にとっても、どうやら同じであるらしい。時緒もそうだが、斬島もまた後を追おうとはしなかった。

「……逃げられちゃいましたね」
「別に構わん。襲ってこなければそれで良い」

斬島の方は、そもそも深追いする気もなかったらしい。刃に付着した血を、刀身を振って落としてから鞘に収めている。
夜はまだ長く、森はまだまだ広い。あまり時間を食っている暇が無い以上、あの怪異はもう放っておくべきだ。時緒もまた思考を切り替え、閉じていた地図をもう一度開こうとして……止まる。

「どうした?」
「……」

先程まで食い荒らされていた、何かの亡骸がぽつねんと転がっている。微かな腐臭と血臭を漂わせるそれに、時緒はふらりと近づいた。近づいて見てみて、それが腹に子の居た野兎だったと分かる。率先して食いつかれたのだろう腹は無残に破かれ、頭だけの残った胎児達が血の海に沈んでいた。

「……」

自然界の弱肉強食、自然の摂理。当たり前のこと。たまたま襲ってきたのが怪異だった、それだけ。草食動物には常に危険がつきまとう。いつ喰われても可笑しくはなく、それがたまたま今日だった。偶然それを見つけた。ただそれだけ。
……分かっては、いるけども。

「ごめんね……」

埋めてやることは出来ない。恐らく此処に転がっていれば、他の獣が残りを食べるだろう。それで助かる別の命があるやも知れない。埋めている時間も無い。哀れむのも筋違いだ。
それでも、時緒は両の手をそっと合わせる。

「……行きましょう」

時間にすればおよそ10数秒。短い短い祈りを終えた時緒に、斬島は何も言わなかった。

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