渡る世間で鬼と逢ひ | ナノ
あんない

金曜の夜。恐らくこの日時が居酒屋のもっとも忙しくなる頃だろう。何せ明日は休日で、今日は平日最後の日とくれば、お酒を飲んでも差し障りの無い日と言い換えて問題無い。となれば、当然仕事終わりに飲みに出る人は増えるし、諸々の打ち上げをしようと思えば、金曜日に持ってくるのがもっとも効率的だ。更に今は11月末で、そろそろ忘年会シーズンも始まってきているという頃。
本当に仕事納めとなる12月下旬は予約が殺到するので、時緒の勤める小学校では、大体それより3週間は前倒しして忘年会用の席を予約するのが通例だ。しかし今回は忘年会では無く、臨時とは言え即戦力になってくれた新人・加々知の歓迎会である。
主任が事務員にしか明かしていない(つまり教員側には内緒の)お勧めの店を予約してくれたので、一行は少しずつ退社(退校?)時間をずらし、店に直接集合する。これはその店を利用する上での約束事のようなもので、おしゃべりなおばちゃん事務員達も、この約束だけはきちんと守っている。

「だあって、あそこのカルパッチョ美味しいのよ」
「あたしはアクアパッツァが好きね」
「ワインがとっても良い香りなのよ! ご主人の目利きよね!」

などと理由を挙げているが、実はただ単にその『ご主人』がちょっとセクシーでアンニュイなオーラの美丈夫だからだろうと明音は考えている(口には出さないが)。

「でもまあ、実際何でも美味しい店なんです。主任が昔からの知り合いだからって、飲み代もちょっとおまけしてくれたり」
「成る程。行きつけの隠れ家的お店、というやつですか」

ふむ、と顎に手を当てた加々知が独りごちる彼の身長は、隣を歩く明音よりも頭一つ分は高い。もはや殆ど世話などしていないがら、一応「新入りくんのお世話役」を任命されている明音は、当然のように加々知とワンセットで店に来るよう指示されていた。

「しかし、随分徹底していますね。あの主任にそこまでの根回し能力があるとは知りませんでした」

徹底した行きつけの隠しっぷりに感心したらしい加々知だが、それについては正直苦笑いするしか無い明音である。

「まあ、行きつけの店を知られるっていうのは複雑ですし。それに何ていうか……うちの学校って正直、教員の先生方と事務員であんまり仲が良くないんですよね。だから余計に隠したいんだと」
「ああ、それは感じますね。先生方にも妙に嫌味な人が多いですし、枕木さんや山一さんなどはよく先生の悪口を言っているのを聞きます」
「あはははは……」

今名前を挙げられた2人の普段の様子を思い出すと、ますます苦笑いしか出てこない。しかしあの2人に言わせれば、やれ「××先生が口うるさい」だの「○○先生がこっちに間違った指示を出したのに責任転嫁した」だのと、一応正当な理由があるらしい。そして明音自身、実際にそういう『言いがかり』や『なすりつけ』の被害には何度か遭ったことがあったので、あまり2人を責められないのが本音だった。

「普通は此処まで仲悪く無いですよね。何か過去にありましたか?」
「あったかなかったかっていうと、ありましたね」

とはいっても、私が赴任するずっと前の話らしいですけど。と、そこまで語った明音だったが、少し拙そうな顔をして一旦言葉を切った。

「正直、聞いてて気分のいい話じゃないんでやめません? 折角これから打ち上げなのに、酒が不味くなりますよ」
「私は気にしませんけどね。どうせ人間関係のドロドロとした愛憎劇でしょう?」
「……なんかそう言うと昼ドラみたいですね。間違ってませんけど。でもやっぱ止めましょう。加々知さんは平気でも、喋る私の気が滅入ります」

今度機会があったら教えますよ、と投げやり気味に明音は言った。折角これから美味い料理と酒にありつけるというのに、それを害する話題は極力避けたかった。

「見鬼のくせに意外と軟弱ですね、蘇芳さんは」
「失礼な! ……常識人って言ってくれません? 人の悪口とか噂話で盛り上がるのが趣味じゃ無いだけです!」

言うに事欠いて軟弱とは何だ、軟弱とは。むくれてそっぽを向いた明音に対し、しかし加々知は涼しい顔である。「冗談ですよ」とは言っているが、何処まで冗談なのか、その無表情からは全く読み取れないのが困りものだ。

「実際、悪口というのは地獄では重い罪ですからね。言うのが好かないなら進んで言わない、悪いことでは無いですよ」
「……え。悪口って地獄行きなんですか?」

程度の大小はあれ、罵詈雑言からちょっとした愚痴に近いものまで、『悪口』なんてものは世に溢れている。友達同士で口にする、嫌いなクラスメートや同僚についてのあれこれ。嫌いな芸能人をテレビで見た時に、不快感のまま発する罵倒。週刊誌が素っ破抜くフライデー的な記事だって、広く捉えれば悪口に近い。
幾ら言うのが好かないとは言え、明音だって絶対に誰の悪口も言っていない、とは間違っても断言できないのは分かっている。明音に限らず、そういう人間は山ほどいるだろう。そして、相手を悪く言って溜飲を下げる気持ちだって、好かないが分からないわけでもない。それでも、悪口を言えば皆地獄に落ちるのだろうか。

「勿論全員では無いですよ。どうしても零れる愚痴、実際に被害が出ていることに対する批判は必ずしも悪口では無い。しかしそれ以外の、相手を必要以上に貶める言葉、根拠の無い誹謗中傷は重罪です。それで盛り上がって相手をこき下ろすことなど以ての外。この罪に該当した者は、大叫喚地獄にある双逼悩処に落ちます」
「だいきょ……そうひょ?」

一気に耳慣れない単語が出てきた。明音が幾つものクエスチョンマークを頭に浮かべると、加々知は「ああ、知りませんよね」と特に嫌な顔もせず再度口を開いた。無表情な割に、彼は快不快は割とはっきり表情に出すのは、明音も何となく分かっていたのでほっとした。

「地獄というのはまず八大地獄、別名八熱地獄ですが、これと八寒地獄に分かれます。私達が主に管理するのは八大の方ですが、『八』とつく通り、全部で8つの階層に分かれています。『大叫喚地獄』とは、そのうち上から五番目にあたります」

そして双逼悩処(そうひつのうしょ)とは、その大叫喚地獄から派生している16の小地獄のうち1つ。此処は村々の会合などで嘘をついた者、悪口を言って集団の和を乱した者が落ちる地獄だそうで、刑罰は『炎の牙の獅子に何度も噛み砕かれる』というものだそうだ。

「想像しただけで痛いし熱い……」

炎の牙の獅子、というのはいまいち考えづらいが、それでもテレビで見るようなライオンが、あの牙でこっちに噛みついて食い千切ってくるというのは恐ろしい。しかもその牙は炎で、燃えている。……現実味は無いが、現実となったらと思うと恐ろしい。

「ちなみにその獅子さん達ですが、ちょっと前まで食後の歯磨きが出来ないことが悩みだったそうです」
「何か一気に怖くなくなった! しかも過去形!!」
「普通の歯ブラシじゃ燃えちゃいますからね。その件に関しましては、地獄謹製の鉄製歯ブラシでどうにか事なきを得ました」
「何か磨くと痛そう!!」

想像上の恐ろしげな獅子が、一気にシュールな姿と成って頭の中を駆け巡る。歯磨きが出来ないことに悩み、鉄製のそれで今はしゃこしゃこ(じゃこじゃこ?)歯を磨いている、炎の牙を持つ獅子たち。……シュールだ。物凄く。

「ていうか……牙が炎なのに歯磨きの必要あるんですか?」
「口臭が気になるそうですよ」
「肉しか食べてなさそうな猛獣が口臭気にするんですか!!」

寧ろ歯磨き如きで取れるのかそれ。と心の底からツッコみたかったが、聞いたところで答えが返ってくるとは思えない。明音は辛うじて「……もう良いです」と声を絞り出し、とぼとぼと店を目指す。仕事終了直後よりも、何だか酷く疲れていた。

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