渡る世間で鬼と逢ひ | ナノ
しゅうまつ

金曜日。それは一週間のうち5日ある平日の最終日である。不定期休みの仕事でなければ、大体の人間が翌日・翌々日の2日間をお休みとして迎える。それは、基本的に定時終了、労働基準法に煩い地方公務員の端くれも例外では無い。

「終わったー!!」
「お疲れ様ー!」

学校の校庭開放終了を知らせる5時の鐘は、彼らの勤務時間終了も意味する。一昔前のように「5時すぎたらたとえ他に仕事が残っててもそのまま直帰」のような真似はしないが、それでも「ああやっと終わった!」という開放感から、どうしても気は抜ける。
しかしそんな気の緩みを、パンッという手を打つ音が締め上げた。

「気を抜くのは早いですよ皆さん、アフター5に快哉を叫べるほど仕事は終わってますか?」

鈴原さん、こちらの書類ミスがありましたよ。
山一さんはこちらの印刷物、部数があべこべです。確認してください。

「蘇芳さんは」

じろり、と亀のように鋭い目が、明音のデスクを睨む。作成を終えた書類が映っているPC画面、一定部数ごとに付箋を貼った印刷物、そして机の上に広げられた、プリンタトナーの管理台帳。

「……取り敢えず大丈夫そうですね」

静かな口調で下された判決。明音はほっと息を吐いた。心なしか加々知の声音が酷くつまらなそうな感じに聞こえたのは、多分気のせいだと思われる。……ついでに、「大丈夫そうですね」の後に、小さく小さく舌打ちらしい「チッ」という音が聞こえたのも、多分幻聴か何かだろう。そうに違いない。

「お陰様で……」

何だかとても理不尽な気持ちになりつつ、明音はやっとそれだけ答えた。大体、隣で逐一ミスをサクサク指摘してくる新入りがいるのだから、気が抜ける筈も無い。ミスが無いのは味加々知のお陰であり、ある意味では加々知のせいだというのが明音の言い分だ。

「で、でも加々知君、今日はもう良いんじゃないい? 急ぎの仕事は殆ど加々知君がやってくれたし……」
「そうそう。それに今日は加々知君の歓迎会なんだから、そんなに硬くならなくても」
「その結果生じたミスや期日遅れは誰が責任を取るんです? まさか歓迎会の主役に尻ぬぐいをさせる気ですか?」

物凄い威圧感と圧迫感が、まあまあと加々知を宥めようとしていた主任と、ベテランの女性事務員を襲う。
ぶんぶんぶんぶん、と振り子のように激しく首を横に振った2人のあまりの手のひら返しっぷりに、しかし口を挟める猛者はいない。

「主任も、押印を忘れてる箇所が多いですよ。このくらいは今日やってしまいなさい。明日になればどうせ忘れてしまうんですから」
「は、はい!」
「枕木さんもです。少々タイプミスが多すぎますよ。赤線入れたので作り直してください」
「はい……」

もはやこの事務室の主は主任ではない。明音は思わず遠い目をした。幾ら自分の仕事が終わっていても、この空気の中ひとりで帰り支度をする気にはなれない。取り敢えず全員にお茶でも煎れようと立ち上がる。

「気持ちは分かりますよ」

給湯スペースでポットの中身を確認していると、良く通る加々知の声が、壁1枚挟んで聞こえてきた。

「歓迎会を開いて頂くのは嬉しいですし、気持ちがはやるのは理解出来ます。が、それで日々の仕事をおろそかにしては本末転倒。その場の快楽に流されて、義務をおろそかにすることは、自らの首を絞めるだけです」

明音の手は手早く人数分のお茶を煎れる。しかし耳と意識ははっきりと、加々知の声を拾っていく。それは半ば無意識であったが、本人に自覚は無い。
鬼だからか、それとも彼自身の声がそうさせるのかは分からない。しかし、加々知の声は不思議なくらい、ひとの注意を引きつけるようだった。

「古今東西、怠惰というものは大きな罪になります。格別美味い酒を味わうなら、まずは今日1日の義務を果たしましょう」

ほら、皆さん動いた動いた! 教師が生徒を言い聞かせるように、パンパンと手を叩く。途端、慌てたように紙をばさばさ操る音や、キーボードを叩く音が響き出す。

「……加々知さんすげえ」

一部始終聞き終えて、明音は一言そう呟いた。思わず口調が崩れてしまったが、言わずにはおれなかったのだ。

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