渡る世間で鬼と逢ひ | ナノ
いへん

神は死んだ、と断言したのは何処の哲学者だったっけな。高校時代に倫理の授業で少しだけ囓った名前を、明音は何とはなしに思い返す。
元々洗礼を受けていながらも、明音は自他共に認める不信心である。神の救いを宛にしたことはことは一度も無い。勿論、好きこのんで罰当たりなことは絶対にしない(一応『視える人間』でもあるので)が、日本人であればその程度の分別は大抵ついているだろう。特に注目すべき点ではない。
しかし、

「うっはあ」

神様、これは貴方を敬わなかった罰ですか。あの神父様とシスターに育てられていながら、礼拝の時間をひたすら眠気と戦うために過ごしていた私への意趣返しですか。地獄の鬼を目の前にしてなお、ちっとも信者らしくしなかったことへの報いですか。
普段あれほど不幸を神のせいにしたくないなどと豪語しながら、実際に予想だにしない不幸を被ればこんなものである。明音は我と我が身にがっくりと肩を落とした。しかしこれを天罰と思うならば少々他を巻き込みすぎである。やはり不幸は神の采配などではなく、偶然と誰かの悪意によってしか起こらないのだ。
そんな、それこそ哲学者じみたことを考えながら、明音は呆然と目の前……自分が間借りしているボロアパートを見つめる。木造では辛うじてないものの、築40年の、古い形の鍵しかない建物。洗濯機もお風呂もついていないため、コインランドリーと銭湯にお世話になるしか無い、正直寝るため以外には殆ど使用していない住まい。
そんな狭い場所であっても、高校を卒業してから2年以上世話になった、愛着はないものの、慣れ親しんではいたのに。

「マジか……」

人間、本気で予想だにしない不幸が訪れると、逆に悲観することも出来なくなる。出来ることなら一生涯味わいたくなかった忘我を生まれて初めて抱いた明音は、その場でふらりと蹌踉けてしまう。がくんと膝の力が抜けて、汚いアスファルトの上にへたり込みそうになった身体が、横から伸びた腕に支えられる。

「大丈夫ですか」

振ってきたのは、こんな時でも酷く淡々とした声だった。まあ明音の不幸は彼にとっての不幸ではないのだから、当然といえば当然だ。しかしこの淡々とした感じが、逆にこの状況となっては有り難い。変に同情されても、いっそ泣きわめきたくなるだけのような気がしてならなかった。

 ◆◇

何か変だな、という気がしてきたのは、『Pomegranate』で加々知と2人で飲んでから数日が経った頃だった。

「ペンが無い……?」

使っているボールペンやメモ帳といった、何でも無いような私物の紛失。財布や身分証明書などのクリティカルなものではないので物凄く困る、ということはないのだが、それでも地味にダメージが来る。最初の2日くらいは自分の過失だと思っていたのだが、帰り道に馴染みの文具店で買った3色ボールペンが、その次の日に紛失してしまえば流石に可笑しいと思わざるを得ない。
それが初日から3日ほどの間続き、金曜日。

「嘘でしょ」

学校で使う上履き……靴紐のある室内履きであるが、これの靴紐が切られていた。私物紛失だけであればまだ何とか『偶然』で済ませる事も出来ていただろうが、これは流石に悪意によるものだ。取り敢えず来客用のスリッパを借りて事なきを得たが、はき慣れている靴でないというだけで動き回ることが多少億劫になってしまった。
そして土日を挟んで翌週月曜日、事態は更に悪化する。

「怪文書、だと……?」

出勤前に必ず覗くアパートの郵便受け、鞄をしまっているロッカーの中、更には帰りに靴を取り出そうと開けた靴箱の中に入っていた『学校をやめろ』と印刷されたA4のプリント。これは見たところどれも同じものだった。
ついでに言うと、靴箱の中に入れていた靴は朝方こそ無事だったが、これは放課後行方不明になり、探し回った挙げ句砂場のど真ん中に埋められているのを発見した。

「なんっっっつー陰湿な」
「テンプレ過ぎて笑えて来ますね」
「笑えないです。うああ埃だらけ……」

パシパシと砂埃塗れになったパンプスを叩きながら呻く明音。後ろに立っている加々知は、相変わらず何を考えてるのか分からない顔で校舎……丁度職員室のある辺りを見やっている。

「陰湿だなーもう、何処の小学生だっつの……」
「現場は小学校ですけどね。ついでにメンタルは何でしょう、3歳児?」
「今時の3歳児だってもうちょっとピュアだと思いますよ」
「間違いありませんね」

はあ、と同時に溜息を吐く明音と加々知。明音は勿論だが、彼もどことなくうんざりしたような面持ちをしている。

「それにしても先週から始まってこんなペース……次は何が来ると思います?」
「さあ。取り敢えず自衛すべきですね。ロッカーには鍵をつけて、靴もそちらにしまうようにした方が良いでしょう」
「分かりました。……南京錠でいいと思います?」
「十分かは分かりませんが、無いよりはマシですね」
「じゃあそうします。他のやつは取り付けるのも大変そうだし」

事務員ひとりにひとつずつのロッカーには、備え付けの鍵が無い。窃盗があるという自体を想定していないためだ。正直無防備にも程があると思っていたが、明音もこんな自体になるまでは意識したことがなかったので文句は言えない。
しかし人によっては自費で購入した鍵をつけていたりするので、明音もそれにならって今日の帰りはホームセンターに寄ることにした。今はまだ大丈夫だが、いつ現金や免許証に手を付けられるか分かったものではない。

「ていうか加々知さんもすみません、何か凄い巻き込んでますよね」

「送りますよ」と普段と何ら変わりない口調で申し出てくれた加々知に、明音は深々と頭を下げた。明音としては誰にもこの事態を言うつもりは(少なくともこの程度の被害で収まるうちは)なかったのだが、加々知は早々に異常に気づいていたらしい。

「職場環境には目を配りますよ。これでも管理職ですからね」

とは彼自身の弁だが、それにしたって把握が早すぎるだろうというのが明音の感想である。
が、何はともあれ。先程から淡泊な反応をしてはいるものの、朝から来客用のスリッパを持ってきてくれたり、無くなったボールペンの代わりに予備のペンを貸してくれているのはこの青年である。
それについて明音が礼を言うと「仕事の出来る人の能率を落とすわけにいきませんからね」という実に彼らしい返事が来たのだが、それでも有り難いことには変わりなかった。

「じゃあ加々知さん、お礼に今日の晩ご飯でも奢らせてください。此処では一応私のが先輩だし。あ、勿論時間があればですけど」
「別に構いませんが……またあのお店ですか?」
「『Pomegranate』ですか? や、他に希望があればそこにしますけど」
「……いえ、文句はありません。但し言っておきますが、私これでも結構食べますからね」
「いやいや、十分知ってますよそんなん」

先日の歓迎会もそうだが、先週のサシ呑みでの食べっぷり飲みっぷりはしっかり覚えている明音である。しかし明音は普段から贅沢は一切しないタイプだし、趣味らしい趣味も特にないので貯金自体はしているのである。加々知の食事を一度奢るくらいで致命的なダメージを受けることはないだろう。

「あ、でもまずホームセンター行っていいですよね? 先に鍵買わないと忘れちゃう」
「ええ、その方が良いでしょうね。……携帯鳴ってますよ」
「え? あ、ホントだ。もしもし?」

もっぱら直接の電話にしか使っていない携帯電話が着信音を鳴らしている。見慣れない番号であるものの、取り敢えず通話ボタンを押して耳に当てる。その数秒後、

「は、火事?」

電話口の男性から聞かされたイレギュラー過ぎる単語に、明音は勿論側で聞いていた加々知もまた目を剥いたのは言うまでも無い。

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