渡る世間で鬼と逢ひ | ナノ
いやみ

クリスチャンでなくてもたとえキリスト教が嫌いでも、『汝の敵を愛せよ』を聞いたことがある人間はいるだろう。『マタイによる福音書』および『ルカによる福音書』に載っている名言だ。

『汝の敵を愛せよ』

自分にとって好意的な人間に優しくすることは簡単。寧ろ悪意のある人間にこそ慈悲をもって接すべし――という、キリスト教の博愛主義を象徴するような言葉だ。まあキリスト教と共に歩んできたヨーロッパ史の血生臭さはさておきとして、博愛主義とは立派なことだ。自分を嫌う人間を好きになれる人間は少ない。だからこそこの言葉は名言になり得た。
要するに何が言いたいかというと、人間は大概自分を好きな相手が好きであり、嫌いな奴は嫌い、ということだ。特に隠しもしない嫌悪を向けてくる相手に、にっこり笑顔で「おはよう」と何のてらいも無く言える奴がいたら、そいつこそが変人と言っていい。

「誰かと思ったら……蘇芳さん、と、加々知さんだったかしら? まあ何でも良いわ。休み時間でもないのに随分暇そうなのね」
「……刺草(いらくさ)先生」

そういう意味で、明音はごくごく自然、ごくごくまとも、そして曲がりなりにもクリスチャンとしては『修行不足』な人間である。
だから、この壮年女性の悪意に溢れた言葉にも腹を立てるし、その言葉を発している彼女自身のことも当然嫌いであった。

「先生こそ、今は授業時間じゃあ?」
「この時間は空きなのよ。良いわねえ事務員は、他の先生方のスケジュールも押さえなくて良いんだから」
「……未熟者ですいません」

ぴくり。前髪で隠れた明音のこめかみが動く。

「まあ貴方達のことなんてどうでも良いわ。それより、これ」
「はい?」

ばさっ、とクリップ留めだけは辛うじてされた紙の束(10枚ほどだが)が床に投げ出される。見ればどうやら授業で使うプリントのようで、旅人算だの植木算だのの文章問題が10題ほど並んでいる。手書き文字なのは、単純にこの刺草という先生のPCスキルの問題だ。

「うちの学年用に印刷しておいて頂戴。数を間違えないでね」
「……」

印刷は別に問題無い。しかしこれは要するに「地べたに手をついて拾え」ということか。明音のこめかみに再度青筋が浮かぶ。眉間に皺を寄せていないのが奇跡というものだ。
確かに明音達事務員は忙しい教員達に代わって授業のプリントやお知らせの印刷を行うこともままあるが、仕事は他にも山ほどあるのだ。拘束時間の長い教師の仕事を、言い方を悪くすれば『代わってやっている』のである。こんな使いっ走りのような扱いを受ける言われも無い。

「分かりました。でもすいません、拾って渡して貰えますか? 私今日は腰が悪くて」
「はあ?」

大人げない返しというなかれ。20歳の小娘にこのお局先生の嫌味はなかなか耐えられるものではないのだ。悪意の無いお節介に笑顔を返す余裕はあっても、悪意満点な彼女の態度にまでお愛想を触れるほど人間出来ていない。
ついでに言うなら、毎日のように子供のお遊びに付き合っている明音は慢性的な肩こりと腰痛持ちである。若いのに困ったことだ。

「その年で目上の人間を顎で使おうってわけ? 大した根性ね」

そのあんたは年下の事務員を顎で使って足蹴にするような感じだけどな。とは明音の心の中だけの弁である。

「悪いけど、私は若い子を甘やかさないことにしてるの。じゃあね」

よろしくね、とも言わず、颯爽と……否、まるで二足歩行の豚が頑張ってつま先立ちで歩いているような歩き方で去って行く刺草。その背が職員室の扉に消えていったところで、明音はんべっと思いっきり舌を出した。

「子供ですか」
「ほっといてください」

大人げないと言われようが、ムカツクものはムカツクのだ。あの教員は事務員はおろか他の若い教員からもあまり評判の良くないタイプ(要するに誰に対してもあんな感じ)なのだが、特に明音に対しては初対面からやたら風当たりが強い。

「ほんとか分かりませんけど、若い女で事務員ってのが気に入らないらしいですね。昔、私と同い年で入った事務員がいたらしいですけど、その子のコトも随分いびってたみたいですし」
「……なるほど」

加々知がつかつかと歩いて、結局刺草が拾わなかったプリントの束を拾い上げた。筆圧の強い、下手ではないが刺々しい印象を与える文字の書き方だ。文字に人柄が表れるというのは絶対ではないけれど、少なくとも彼女に関しては当てはまっていると明音は思う。

「あ、すいません」
「いえ。それより急がないと山一さんが待ってますよ」
「そうだった!」

正直このプリントも今から突き返して「自分でやってください」と言ってのけたいところだが、その時間も正直惜しい。

「ってか、職員室にも複合機あんだからそっち使えよ、あのオバサン」

合理的かどうかをさておいて、取り敢えず明音に雑用を言いつけるのは彼女の通常運転である。ちなみに明音がそこにいない場合は、他の事務員か若い女教員がとばっちりを食う。いつものことだ。

「典型的なお局社員ですね」
「社員っていうか先生ですけどね。あーあ、最悪。折角カレーでテンションあがってたのに」
「カレーでテンションを上げるいい大人」
「うっさいですよ」

歩いて(否、小走りになって)ようやくたどり着いた資料室で、お目当てのトナー1箱とメルカトル図法の巨大世界地図を見つける。よっこらせ、と微妙に痛む腰にむち打って箱を抱えた明音から、小さく舌打ちをした加々知がその箱をひったくった。

「あっ」
「さっさと鍵閉めてください」
「……どーも」

柄は悪いが親切には違いない。明音はぺこんと頭を下げる。加々知はもういつもの無表情に戻っていて、鍵をしめるのに少しもたついた明音を遠慮無く置いていこうとしていた。

「加々知さんって団体行動で遅れた人も容赦なく置いてくタイプですよね、絶対」
「おや、よくおわかりで」

わからいでか。

「まあありがとーございます。助かります」
「いえ別に。若いくせに腰を痛めた蘇芳さんにこの荷物はきついでしょうから」
「……わーい加々知さんちょー親切ー」

ちょっとばかし悔しいが、万年腰痛持ちの身には有り難いので何も言えない。明音は加々知に見えない角度でぐぬぬと顔を顰めた。

「窓に映ってますよ」
「嘘ぉ!?」

しかし失敗した。毎度のことながら、加々知はいつも明音より数枚上手だった。

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