いのり
神を信じていないわけではない。祈りを嫌っているわけでは無い。信仰を無意味と思っているのでもない。
ただ単に、それらが自分を救ってくれるわけではないと知っているだけだ。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」※
神を信じて、罪を悔いる人がいる。祈ることで救われる人がいる。信仰を糧に、今日の日を生きていける人がいる。それはよく知っている。幾ら無宗教の人間が多い日本でも、毎週日曜のミサを欠かさない、熱心な信徒は存在する。彼らはまるで親を信じるように神を信じ、友を愛するように神を愛している。それが悪いとは全く思わないし、愚かだとも考えない。
「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」※
だが、結局自分を救うのは自分だ。神も祈りも信仰も、その切欠に過ぎない。『天は自らを助くる者を助く』という言葉が象徴する通りのこと。苦難に負けない人間、負けても立ち上がれる人間は、本当は自分ひとりで幾らでもそう在れるものだ。反対に、信仰を言い訳に幾らでも残酷なことが出来る人間もまた、歪んだ信仰を切欠に、自らの悪しき側面を表に出しただけ。
「トマスが言った。『主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか』」※
自分が血反吐を吐く思いで成したことを『神様のお陰』にすることも、自分がしでかしてしまったことを『神様の思し召し』にすることも、癪に障る。自分がやったことくらいは、自分で責任を取りたい。
「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない』」※
それが正しいと思っている。ただそれだけのことだ。
「あと正直に言って、この1時間があれば宿題とか予習復習とか仕事の残りとか割と出来るんですよねー」
「寧ろそっちが本音でしょう、貴方」
真面目に語ったかと思えば、結局そういうことか。何だかアブラナの茎にくっついたアブラムシでも見るような目で見下ろされた明音は、酷く気まずげに視線を逸らした。
「おふたりとも、お静かに」
祭壇の神父様は何も言わなかったが、代わりにオルガンを弾き終えたシスターに注意されてしまった。加々知が淡々と謝罪した隣で、明音も「すみません」と小声で呟いた。滅多に怒らないシスターだが、ミサの時間の私語にはやはり注意くらいする。
ミサの時間は大体1時間で終わる。賛美歌も幾つか歌うし、祈る時間の他に神父様の『回心への招き』や、聖書の朗読がある。細かいところは宗派や教会によって違うものの、1時間という短い中ではそれなりに濃密なスケジュールだ。一番忙しいのは神父様やシスターだが、祈る信者達も歌ったり祈ったり懺悔したりと、それなりに頑張らなくてはならない。
「感謝の祭儀を終わります。行きましょう。主の平和のうちに」
優しげな、良く通る神父様の声。
「神に感謝」
信徒達が一斉に唱え、閉祭の歌を歌う。神父様とシスターが礼拝堂を出て行き、此処でようやくミサは終了する。
それを見送った後に、並んで祈っていた子供達も神妙にした顔を上げ、行儀良く退堂していく。普段のやんちゃさも、このときばかりは影を潜めるのがいつものことだった。逆に言うと、此処以外ではいつも大概やかましい。
最後の1人が扉を潜ってから、明音と加々知はほぼ同時に立ち上がった。
「どうでした?」
「大変勉強になりました」
ぎい、と音を立てて礼拝堂の扉を閉めてから尋ねる明音。加々知は普段と全く変わらない無表情で、首だけを微かに動かす。
「何だかんだで、こういうきちんとした形でミサを体験したのは初めてです。子供達も真剣でしたしね。何処かの誰かと違って」
「聞こえてるんですけど」
「聞こえるように言ってますから」
しれっとした顔で言い放つ加々知の憎らしいこと。明音は物凄く嫌そうな顔で相手を睨んで見るも、やはりダメージはゼロだ。この男の心臓は絶対に金属製のたわしみたいなもので出来ているに違いない。
「何か言いました?」
「……何も言ってませんって」
読心術でも使えるのか。もしくはテレパシー。鬼ってこういう生き物なのか。
「そんなわけないでしょう。私も人の子ですよ」
「だから心読まないでくださいってば!」
流石に我慢ならず抗議してみるも、「貴方が分かりやすいんでしょう」とやはり加々知は堪えない。明音は深々と嘆息した。何だか本当に、彼と話していると疲れる。
「ていうか人の子って……
「明音ねーえちゃーん!!」
「ぐぼっっ」
どすん。鈍い音と同時に、主に腹部に走った衝撃と鈍痛。くの字になって倒れそうになった身体を何とか支えて下を見れば、丸い頭が思いっきり腹に突撃している。これは痛い。内臓へのダメージが半端ない。
「ミサ終わったしあそぼーぜー!」
しかし抱きついてくる子供に邪気は無い。悪意もない。だが悪戯心はありありと見てこれる。蹲った明音の首根っこや髪や服を引っ張り、「なーなー」と纏わり付いてくる。
「んにゃろうめ……」
呟いた声はビックリするほどドスが利いていた。まだ鈍痛を訴える腹部をさすりながら、明音は手探りで纏わり付く少年の腰を捕まえる。
「……まず、謝らんかあ!!」
「わぁああっ!?」
苦しむ明音が見ていても謝罪する気はゼロらしい子供をとっ捕まえ、抱き上げて逆さづりにしてしまう。
「何すんだよお! 降ろせー!!」
「だーめ! 謝るまで許しません!」
「おーろーせー!!」
「おーこーとーわーりー!」
俵を担ぐように子供の身体を支えながら歩く。若干腰から下がぷるぷるするが、そこは我慢。すると恐らくはこの少年を追ってきたのだろう他の子供達が「あー!!」と不満混じりの大声で大合唱をした。
「こーちゃんが捕まってる!」
「明音ねーちゃん! こーちゃんをはなせー!」
「姉ちゃん俺も抱っこー!」
「うわ、ちょ、重い! 離れて重い! 重いっつの馬鹿!」
数を味方に付けた子供の突撃は驚異以外の何物でも無い。特に団結されると本当に手を焼くのは大人の宿命だ。
「やっかましい! 悪い子はみんな抱っこの刑だ!!」
が、明音の方もこのくらいは慣れたもの。取り敢えず俵にしていた子供を降ろし、手当たり次第に子供を抱き上げては次の子を抱き寄せていく。若干乱暴にした方が喜ぶ子が多いので、頭をぶつけたり落としたりしないようにだけ気を配る。
「腰痛めますよ、蘇芳さん」
「あはは! そんなんしょっちゅうですよ!」
あまり広くない廊下で追いかけっこのようなこともしながら、一番小さい子を肩車してやる。男性でもなかなか辛い体制だが、それを気にしていたら話は始まらない。
「ふむ」
無表情でその様子を眺めていた加々知が、やおら動いた。肩車に必死な明音の袖をぐいぐい引いていた子供を捕まえ、ひょい、と片手で抱き上げてしまう。
「おわあ!?」
「加々知さん!?」
まさかの人物(鬼だけど)のまさかの参戦に、子供達のみならず明音も目を剥いた。当の加々知はやはり涼しい顔をしていて、何でもないように次々と子供を持ち上げては肩だの腕だのにかけていく。
「ほらほらどうしました? 早く逃げないとどんどん捕まえてしまいますよ」
などと宣う加々知の表情は変わらない。無表情。ともすれば不機嫌そうにすら見える面差しは、笑みの面影すら見せてくれない。
だが、子供というのは厳禁だ。4人も子供を支えて平気な顔をし、更に明音の悪ふざけに乗っかるようなことを言った彼の青年を、彼らはあっという間に『遊び相手』と認識したらしい。
「たっくんを離せー!」
「兄ちゃんおれも! おれもおんぶ!」
笑いながら突撃していく子供。思いっきり便乗しに行く子供。子供数人にぶら下がれても、明音と違って加々知はびくともしない。
「加々知さんマジすっげえ」
力持ちなのは普段の仕事で分かっていたが、子供相手に此処までとは恐れ入る。此処が教会の中だというのも忘れ、明音は南無南無と両手をすりあわせたのだった。
※……日本聖書協会『新共同訳 新約聖書』ヨハネによる福音書14章1節