渡る世間で鬼と逢ひ | ナノ
げんじつ

金曜日の後は、土曜日。一般的な企業はお休みで、それは学校の事務員も同じだ。寧ろ公務員扱いだから、休みには他の企業よりも煩い。
しかし、明音の休日は基本的に普段と変わらない。朝の6時には遅くても起き出して、シャワーを浴びて目を覚ます。冷蔵庫に残っていた生卵とパックのご飯で簡素な朝食を済ませれば、あとは1時間ほどごろごろする。この『ごろごろする』暇が平日にはないだけで、スケジュールは大して変わらない。
午前7時30分を過ぎた頃、ようやく枕にしていた座布団から頭を上げる。見苦しくないように髪を整え、着替えをする。いつもと大して変わらない、細身のパンツとハイネックのセーター。アクセサリーもつけないし、最後の最低限。コンシーラーでいつの間にか出来ていたニキビを隠し、パウダーで全体の色を整える。チークはオーソドックスなピンク色で、眉は目尻の方に少しだけ尻尾を伸ばすように描く。アイメイクはしない。
そうして時計の針が8時にさしかかったところで、出かける準備をする。鞄の中を確認し、鍵を取り出す。
築40年のアパートのそれは、主流のディスクシリンダーなどではなく、最近はもっぱら簡易鍵として使用されるピンシリンダー式。防犯性が高くないので付け替えることを一時期検討したものだが、結局面倒になってやめてしまった。そもそも、明音の家に盗むような金は殆ど無い(そして、その意識が甘いのだとツッコんでくれる、心優しい人は今この場に居なかった)。

「ふあぁ……」

辛うじてハンガーにかけていたコートを着込み、履き古したパンプスを履く。以前何処かのデパートで半額セールをやっていたときに買ったものだが、思いの外頑丈でお気に入りだ。そろそろ踵がすり減ってきているが、修理に出すか買い換えるかを真剣に考えている。

「いってきまーす」

誰もいない家なのに挨拶はする。毎度馬鹿だなあと思うものの、言わないなら言わないで違和感があるから仕方ない。少々勢い込んで玄関の、正直あまり重くない扉を開けると、

「おはようございます、蘇芳さん」
「……」

何故かその玄関前に、同僚(男。鬼)が堂々と仁王立ちしていましたとさ。まる。

「……私、家教えましたっけ?」
「この状況で叫び出さないとは見込みがありますね」

何の見込みだ。涼しげな顔でいけしゃあしゃあと言ってのける同僚、もとい加々知。というか本当に、何故此処に居るのだろう。
確かに、昨日の歓迎会では確かに呑めや歌えやで、それなりに彼とは意気投合した記憶がある。洋酒は明音の方が詳しかったが、日本酒については流石に加々知の方が詳しくて、色々と美味しい銘柄や飲み方を教え合ったりしたものだ。
が、緊急時の連絡先交換はしたものの、住所を教えた記憶はない。ついでに、加々知から聞かれた記憶もない。

「平日中に名簿で確認しました」
「え、一応プライバシーなんですけど」

何しれっと言ってるんですか。唖然としながら突っ込んでみても、加々知は何処吹く風である。それどころか、「あの学校セキュリティ管理甘過ぎですよ」と、何だか何処かの委員会の監査員みたいなことを言い出した。
下っ端事務員の明音にとっては、正直「そんなこと言われても」、である。

「お休み中すいません。折り入って蘇芳さんに頼みたいことがあったのですが、昨日は切り出すタイミングがなかったもので」
「頼み事?」
「ええ、実は蘇芳さんが孤児院の方だと聞きまして」

『孤児院』――何でも無いように吐き出されたその一言に、明音が眉を寄せたのは反射的な反応だった。

「……すいませんけど、何処でそれを?」
「鈴原さん達が教えてくれました。別に私から聞いたわけじゃないですよ」
「あー……」

勿論根が悪い人たちではないのだが、時々そうやって悪意無く人のプライバシーを抉るからあの人達は困る。中年おばちゃんの例に漏れず、噂話が好きなのだ。勿論明音が最初に家族の話を振られて誤魔化さなかったのも悪いのだが、それでも自分の知らないところで好き勝手に話をされるのは気持ちが悪い。

「あんま言わないでくださいね。もう親無しってだけで馬鹿にしてくる馬鹿相手にすんの疲れるんで」
「言いませんよ。私だって別に冷やかしで聞いてるわけじゃありません。みなしごがみなしごを馬鹿にする道理が何処にありますか」
「え」

あまりにもしれっと言い放たれた一言に、時が止まったような気がしたのは多分明音だけだろう。

「何ですか別に。そう珍しい話でもないでしょう」
「それはそうですけど……」
「まあ私の場合、貴方の数百倍は生きてますからね。あの頃は親無し子も、子を亡くした親ももっとありふれた存在でしたが」
「……すいません」
「いえ別に。みなしごなのは事実ですので貴方が謝ることではないです。だから私も謝りません。今回はこれで手打ちにしましょう」

それでですね、と続ける加々知は本当に何でもなさそうな顔をしている。とりわけ無表情だから本当に『何でも無い』のかは分からないが、明音は取り敢えずそれを受け入れることにした。
……鬼にもみなしごとかあるのか、などと、少々失礼なことを考えはしたが。

「今日にでも、蘇芳さんの家に少々伺わせて欲しいんですが」
「は?」

ぽかん。思わず口を大きく開けてしまった明音は多分悪く無い。しかし何が気に入らなかったのか(或いは何かが琴線に触れたのか)、加々知はその青白い手で明音の頭と下あごを押さえると、ガツンと音をさせて無理矢理その口を閉じさせた。

「〜〜ッッ!!? !?」
「ああ、舌は噛まなかったですね。偉い偉い」

絶妙な顎の痺れと鈍痛に涙が滲む。歯が折れたらどうするんだコノヤロウとばかりに睨み付けたが、加々知のポーカーフェイスはやはり崩れなかった。

「変な意味じゃないのにおかしな方向に取るからですよ。反省しなさい」
「加々知さんこそ年頃の女泣かせたことを反省しなさい」
「おや、まだ躾が足りませんか?」
「もうやだこのドS! 鬼!!」
「鬼です」

おかしい。昨日は物凄く意気投合してたのに、何これ。何だこれ。未だ少し違和感のある顎に手をあてた明音は、もう許されるなら部屋にUターンして泣き寝入りしたいくらいだった。
大体『変な意味』って何だ。変な意味って。

「そろそろ復活しましたか?」
「……しました」

目の前に2本立てられた、男っぽい太い指が恐ろしい。明音は辛うじて、彼に対してこの暴力鬼めと心の中で罵るだけに留めた。
そうでないと、今度は目玉に向けてその指が突き入れられそうな気がした。

[ back to top ]

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -