酔狂カデンツァ | ナノ


▼ 炭酸水に溺れた金魚

ふ、と混濁していた意識がおもむろに浮上したのを感じた。眼を閉じたまま、どこか柔らかいところで横になっている自分の身体。少しばかり火照っていて、そして指を動かすのも億劫だ。
ずっとこのまま寝ていたい。起きていたくない。けれども一度浮いた意識は、そのまま沈んでいこうとはしなかった。深く呼吸を繰り返し、まだぼんやりとした頭をゆうるりと働かせ始める。
何か、忘れている。そんな気がした。鼻で息を吸うと、少しツンとする匂いがした。アルコールの匂いだと、まだ鈍い頭の片隅で思う。決して良い匂いというわけではないが、懐かしい匂いだった。
幼い自分がまだもっと幼かった頃、いつも嗅いでいた匂い。評判の医師と看護師だった両親に、いつもほんのり染みついていた。わざと白衣に顔をうずめて、「くさい!」と妹と一緒にはしゃいだ記憶がよみがえる。じわりと目元が熱く濡れる。

――病院……?

にじんだ涙が、目ヤニで接着されていた瞼を引き離す。潤んだ眼をようよう開けば、淡い水色の天井が眼に入った。

「……」

ぱちり。瞬き一つ。重たい手を持ちあげて、ごしごしと眼をこする。もう一度瞬き。間違いなく視界に広がる、見慣れない天井。声を出そうとしても、声帯はきちんと震えてくれなかった。乾ききった喉は、声の代わりに掠れた咳を出させる。

「こ、こは……」

口元を覆った手に巻かれた包帯。なんだこれ、と首をかしげようとして、けれど中途半端に硬直する。全身を駆け巡った痛みに、悲鳴すらあげられず悶絶した。

「っ……!! ……ぁ!!」

痛い。痛い。痛い痛い痛い痛い痛い!! 腕が痛い。脚が痛い。腹が痛い。顔が痛い。頭が痛い。胸が痛い。全身が痛い!! 身体から骨のきしむ音、肉が悲鳴を上げる音が聞こえる。呼吸が上手く出来ていないのが分かる。水に打ち上げられた魚のように、はくはくと、何度も口を開いては閉じる。は、は、は、と何度も肺を叱咤して、ばくばく煩い心臓を怒鳴りつけるようにして、わななく全身を宥めにかかる。
落ちつけ。落ちつけ。落ちつけ。息を吸う、吐く。吸って、吐く。吸う。吐あ。すう。はあ。すう。はあ。

「……はァ――」

やがてようやく痛みが落ち着き、開ききっていた全身の汗腺が、これ以上脱水させるのをやめてくれた。呼吸を少しずつ浅くしていく。膨れきっていた肺が萎み、喧しかった心臓も静かになる。額に浮き出た汗を拭いて、改めて自分のいる場所を足元から見まわした。
壁。薄い水色。天井と同じ色だ。小さなコンテナ。一番上の棚には、厚さのあまりない本が数多くおさまっている。右側にはベランダと、外を遮る大きなガラス窓。光をさえぎるカーテンは、淡いベージュ……。

「おう、起きたか」
「!?」

布越しに部屋に入ってくる光の眩しさに眼を細めたその時、全く耳慣れぬ声が頭上に降ってきた。慌てて飛び起きそうになり、しかしすんでのところで頭を押さえつけられる。

「バカタレ、急に動くな。全治3カ月だぞ」

ぎゅ、とやや遠慮のない力で額を押さえつけてくるのは、若い女だった。口をへの字に曲げて、眼鏡の奥で面倒くさそうに自分を見下ろしている。

「飯は持ってきてやるからじっとしてろ。あと騒がしくするなよ、横のデカブツが起きる」

デカブツ? 女が顎をしゃくった先に首を向けた。そこにあったのは、丁度自分が寝ているのと同じふかふかのベッドと、そこに寝ている一人の男。

「――ッッコラさ、……!」
「起きンなっちゅーに」
「ぅぐっ」

脊椎反射で起き上がろうとして、またも女に押さえつけられた。しかも今度はデコピン付きである。地味に痛かった。

「心配せんでも峠は越えた。そのうち眼ぇ覚ますさ」
「え……」
「助かってるっつってんだよ。オペは成功したし、経過観察も好調。心臓も脳もすこぶるまともだ」

何を言われたのかなかなか理解できず、ただ茫然と女を見上げる。女はこちらの向ける視線など気にした様子もなく、くぁあ……と大欠伸をした。

「……のか?」
「んあ?」
「起きるのか……? コラさん……」
「こらさん? ああ、こいつのことか。心配しなくても、近いうちに一度くらい目ェ覚ますよ」

血の気の失せた寝顔。いつも見ていたピエロのようなメイクは拭きとられ、けれど唇や目の下には血の跡が光っている。痛々しい。そして弱っている。けれど、女は彼を生きていると言った。そして、近々目を覚ますとも。

「……うっ、」

鼻がツンと痛んだ。頬が熱くなった。眼の淵から熱い水が溢れる。ひくりと喉が鳴った。
生きてる。……生きてる。どうしてかはわからない。けれど、生きている。自分も、彼も。

「ぅ……うあっ……! ぅわあぁぁあ……ッ!」

絞り出すような嗚咽が止められない。涙腺も何もかも決壊して、ぼろぼろとこみ上げる。

「……熱上がるぞ」

堰を切ったように泣く子供の頭を、女が撫でた。先ほど同じ手の持ち主とは思えないほど、それは優しい手つきだった。

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