酔狂カデンツァ | ナノ


▼ 追いつめられた傷痕

恐らく何処の国でもそうだろうが、医学部の授業では遺体の『解剖』が必須だ。勿論生き物を生きたまま使うのではなく、生前に希望した者の遺体……つまりは生命活動を止めた『人間だったもの』を使用する。生身の臓器や骨格を実際に見て、人体への理解と血液や臓物への耐性を鍛えるのが主な目的だ。
だから本来であれば、生きたマウスよりも人間の死体をひとつ使った方が、ローへの練習方法としては正しいのだとキリエは思っている。幾ら同じほ乳類とはいえ、人間とマウスでは大きさも体温も異なるからだ。

「あっ!?」

だが、ローが手術するのは自分自身である。つまり子供であるわけで、大人ならまだしもこの国で傷の無い子供の死体を探すことは恐ろしく難しいし、キリエも出来れば御免被りたい程には闇深い分野である。大人の大きな体格に下手に慣れてしまうと、いざ自分の身体を弄るときに勝手の違いに戸惑うことになりかねない。それならば、人間と比べて小さすぎる、そしてデリケートなマウス相手に練習をする方が練習になるだろうとの考えだ。

「あ、こら、動くなって! おい!」
「そりゃ動くだろ、生きてるし」
「黙ってろクソ女!!」
「良いから口より手ェ動かせチビガキ」

あとは、ロー自身が医者の息子であり、人体についての知識が元々あったことも、『死体』でのレッスンを飛ばす大きな理由だった。臓器の配置から主な役割まで、医学書に載っていることは殆ど諳んじていた上に、それなりに流血沙汰にも慣れている彼に、今更人体の耐性云々というような前置きは不要だったのだ。
何より、

「ハ、っく……!」
「げっ」
「……ハア、ハアッ、ハッ」

胸を押さえて蹲るローの、丸まった背中を撫でる。呼吸しやすいように仰向けに寝かせてやり、脈拍と体温を確認した。

「喋れるか?」
「ん……」
「ゆっくり息吸って吐け。ゆっくりだぞ」
「は、ふ……は、はあ、は……」
「そう。目眩は?」
「……する」
「そのまま目ぇ瞑ってじっとしてろ。コラソン、そこの水」
「わ、分かった! ちょっと待……あだぁ!?」
「だから何で何も無いトコで転ぶんだお前」

床が傷むだろーがクソが。とメンチを切る大変柄の悪い主治医に、コラソンはしおしお縮こまりながらも水の入ったペットボトルを手渡す。

「ほれおチビ、水飲め水」
「ん……」

短時間ではあるが意識の混濁と呼吸不全。その頻度が少しずつ頻繁になっている。珀鉛病という病を他に知らない以上あくまで感覚的なものであるが、良い兆候でないのだけは間違いない。あくまでキリエの感覚的な判断だが、恐らくこのままでは……。

――……しゃあねーな。

小さく息を吐いて、胸ポケットに入れていた煙草を取り出す。

「? 先生、何処行くんだ?」
「ヤニ。お前このままこいつ看てろ。何かおかしくなったらすぐ呼べ」
「わ、分かった」

コキ、と軽く肩の関節を鳴らす。ちょっとした動揺や恐怖を隠すことには慣れていたのが幸いし、意識せずとも普段通りの口調と歩き方になる。
ふらりと気怠げな、元気の無い足音を立てて部屋を出る。何となく背中にコラソンの視線が突き刺さっていた気がしたが、キリエは気のせいだと思うことにした。

 ◆◇

「はー……」

ベランダに出て、肺一杯に煙を吸い込み、吐き出す。タールとニコチンの煙が体中に蔓延し、じわじわと身体に濁りとなって堪っていく。

「……」

何度かそれを繰り返しながら、おもむろにポケットから取り出したのはスマートフォンだ。登録されている番号はそれなりに多いものの、それは所謂交友関係の広さからではない。寧ろ友達なんて殆どいた試しの無いキリエのアドレス帳には、大体がビジネス関連の『宜しくない』方々の連絡先が連なっている。勿論、カモフラージュでそれぞれ架空の個人名で表示されるようになっているが。

「やっぱ、保険は必要かねえ」

あー参った、と独りごちながらも、スマートフォンを操作する手は淀みない。深々と吐き出された紫煙はあっという間に風に流れ、空気に融けるようにして消えていく。

「キリエ先生」
「……あ?」

一応は繋がりを持っているブローカーの番号を表示させて、しかし通話するか逡巡していたそのとき。
唐突にかけられた声に振り返ると、開け放していたガラス戸の向こうから、相変わらず松葉杖をついた大男がこちらを見つめていた。

「……ロー看てろっつったろ」

存外低い声が出た。動揺で震えることはなかったが、それでも人によっては普段との違和に気づいただろう。コラソンはどうか分からなかったが、彼は苦笑して「すまん」とおざなりな謝罪をした。

「けど、ちょっと色々気になってさ。ローは今落ちついてる。すぐ戻るけど、ちょっとそっち行っていいか?」
「……勝手にしろ」

ヤニの煙こっちに飛ばすなよ。はいはい分かってるって。と、既に何度か交わした会話を繰り返すのは、半ばごっこ遊びに近い感覚だ。緊張と言うには少し弱い、けれどぎこちない何かを感じるのはキリエだけだろうか。ちらりと横目で伺ったコラソンは、いつも通りの締まりの無い顔をしているように見える。

「……」

暫し沈黙。素直に風下に立ったコラソンが、自身の煙草を吹かしていた。どうしても匂いは多少こちらに来るものの、煙が飛んでこない分我慢できない程では無い。キリエは軽く目を伏せて、短くなった自分の煙草を灰皿に押しつけた。

「先生、あのさ」
「……んだよ」
「聞きたいことがあるんだ」
「……」

私は聞きたくないな。そう思ったものの口に出さないのは、彼の知る権利を否定出来ないからだ。彼はローの保護者であり、この世で唯一気を許せる相手だ。そして今となっては、この男自身にとってもローはこの上なく大事な存在に違いない。

「ローは、助かるのかな」

予想のどんぴしゃを突いてきた科白に、溜息を零すのをぐっと堪える。どうしようもなく答えるが億劫なのは、それがキリエにとっても今最大の懸念事項だからだ。

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