▼ 死を待つ骨のように
取り出したのは何処にでも、というか、財布を探せば1枚くらいは大抵入っているだろう、十円玉。何の変哲も無いその銅製のコインを手の中で弄びながら、両手をテーブルの下に入れて隠す。適当にどちらかの手できちんと握り、もう片方の手も同じように握り拳を作る。そしてやや勿体ぶって、子供の小さな拳が2つ、机の下から出てきて並んだ。
「左」
どっちだ、と子供が問うより先に、頬杖をついたキリエが口を開いた。常と同じような気怠げな口調で、火のついていない煙草を唇の先で咥え、遊んでいる。左、と指定された拳に心なしか力を込めたローが、ぎゅっとその眉間に深い皺を刻んだ。
「むかつく」
「はいはい。で、どっちだ?」
「……チッ! 当たりだ」
渋々開かれた両方の手。そのうち左の方だけに、先ほどまで弄っていた十円玉が握られている。キリエはにやりと笑った。
「もっかいやるか?」
一応聞いてみる。此処までのやりとりは、既にこの30分で14、5回は繰り返されている。そろそろローがうんざりしているのを分かった上で尋ねれば、ローは物凄く嫌そうな顔をしながらも「もういい」と答えた。
「本当に何のトリックでもねえんだよな?」
「当たり前だろ。何ならもっと別のことでやろうか? 明日の天気とか宝くじの当選番号とかさ。何ならロシアンルーレットでも私は構わねえけど」
「……別に良いっつってんだろ」
「何だ。張り合いがいが無ェな」
にやにや笑うキリエと対照的に、ローがむっつりと顔を顰めるのはいつものことだ。キリエはやはりさして気にも留めず、さて、とローが握る十円玉をしげしげと眺めているコラソンを見やった。ローよりも余程素直に驚きを露わにした彼は、「へー」だの「ほー」だの言いながら、感心した風情でキリエとコインを見比べている。
「すげえなあ、キリエ先生。ただのドクターじゃねえんだな」
「こっちに関しちゃ私自身が関与した問題じゃねえけどな。まあ生まれつきだ、生まれつき。ガキの時からこの体質だよ」
つらつらと語るのは、まるで嘘のような本当の話。
ババ抜きをすれば、まず最後までジョーカーは回ってこない。じゃんけんは(一番良い結果になるよう)必勝。仲間内で行った雀荘では、漫画でしか滅多にお目にかかれないような手が連発される(そして如何様を疑われる)。試しに適当に買った宝くじでは、『最低』当選金額が100万円。
靴紐が解けたので立ち止まって結ぼうとすれば、3歩先のあたりに錆び付いた看板が落ちてきた。運転した車が後ろから追突され急停車した時は、隣の車線を走っていた大型トラックが荷崩れを起こした。季節外れのインフルエンザがクラスで流行った小学校時代、熱が下がった頃につけたテレビの向こう側で、遠足の目的地で大規模な火災が発生した(死者は出なかった)。
「えーと、つまり……先生はなんつーか、運が良いってことか? それも半端じゃなく」
「ざっくり言うとな」
ローから受け取った十円玉を矯めつ眇めつ見つめていたコラソンは、「ほーお」とこれまた妙に間抜けな感嘆符を吐き出す。「間抜け面すんな」とキリエがデコピンをかますと、大袈裟に痛がるのが何だか面白かった。
「先生指の力強くね?」
「普通だろ」
強いて言うなら、外科医は基本手先が器用でアクションやシューティングゲームが得意であるが、別に指の力は然程関係無い。体力勝負なので、それなりに持久力やスタミナはあるが。
「つーかお前がでけえ図体の割に痛がりすぎなんだろ」
どう少なめに見積もっても、コラソンの身長は3メートルを超えている。外を歩けば確実にギネス記録ものだ。要らぬ注目を浴びることになるし、万が一にでも変な話題を広めればキリエの生活も危うい。あと半月もしないうちに松葉杖も取れるだろうし、家の中だけを歩かせるのも精神衛生上宜しくない。今のうちに何とか手立てを考えなければ。
――って、ちょっと待て。
ぐるぐると考えていた思考回路を、何とか押しとどめる。ちょっと待て。落ち着け。一体何故私は今、こいつ等が怪我を治した後のことまで考えたのだ。……治療が終わった後のことなんぞ、キリエが気にすることではないのに。
――何で今後もこいつ等と暮らすこと前提? わけわからん。願い下げだっつの。
しかしまあ、コラソンの怪我はさておき、ローの病気がどうなるのかまだ分からない以上、彼らを放り出すとしても暫く先の話だ。当面のことを考えるのは別に間違っていない。キリエは改めてそう思い直すと、「兎に角」と口を開いた。
「さっきの銃も見ただろ。ディレード・ファイアってのはリボルバー特有の現象だが、そうそう頻発するモンでもねェ。が、私はもうアレを何度も見てる。あれよりもっと酷ェ有様になったことも何度かな。……分かるか? 特に命がかかった『賭け事』に関して、私は生まれてこの方負けたことが無い」
先ほどのやりとりを賭けと称するのは少し違う気がするが、これが実弾を使ったロシアン・ルーレットであっても答えは同じだ。第三者的な根拠の証明が無い、経験則でしかない、思い上がりも甚だしいような自意識過剰な思考だが、キリエはしかしそれを疑わない。神に愛されている、と言ってしまうと物凄く中二病臭いが、要するに自分が死ぬとは思えないし、実際に結構な綱渡りをしながらも今日まで生き残っている。
「この家、結構立派だろ。実は防音も防犯も完璧でな。家ン中で乱闘が起こっても何とかって連中がアフターサービスで綺麗にしてくれるようになってンだよ」
勿論、最初からこんな立派な条件で暮らせていたわけではない。此処を勝ち取るために、キリエはそれこそロシアン・ルーレットを含め、命がけの『ギャンブル』を数回繰り返した。相手は勿論様々で、今も生きていたりもう死んでしまっていたりもするが。
「だからまァ、私の『これ』は結構有名でな。万が一ああいう馬鹿が襲ってきても何とかなるっていう……縁起担ぎみたいなモンがあるんだよ」
「成る程。だから先生の若さでもああいう手合いとやってられンのか」
「そういうこと。ま、残念ながら『これ』が守るのは私であって、他の連中があやかれたとしたらオマケみてェなもんなんだけどな」
「え。そうなのか?」
「ったりめーだろ。何のためにさっき私がお前ら庇ったと思ってる」
伊達に20数年、こんなミラクル体質と付き合っているわけではないのだ。もはや下らない漫画の特殊能力染みた自らの強運が、『鳴海キリエ』本人にしか作用しないのは何度も実証されている。
「ま、そういうわけだから」
コキリと首の骨を鳴らし、キリエは唇で弄んでいた煙草を指で外す。火の付いていないそれを灰皿の中に落とすと、ほんの僅かに音が鳴った。
「お前ら、治療終わったらさっさと出てけよ。折角助かったのにくだらねえ抗争やら暗殺やらに巻き込まれたかねェだろ」
伝えたいことは、それだけだ。キリエは『患者』の命は最大限に守ろうと努力するけれども、彼らが患者でなくなれば、あとはもう何も顧みない。今までも当然そのスタンスだったし、今更変えようとも思っていなかった。
「お前らの特殊な事情は分かった上で言ってる。入院中なら働き口なり何なり探す手伝いはしてやるから、出来るだけ身の振り方決めとけ」
とりつく島も無いキリエの口調に、コラソンもローも何も言わなかった。彼らはただただ、戸惑ったような、寄る辺ないような顔を揃って浮かべていた。