▼ 花を待とう
医者という仕事は体力勝負だ。外科医がその最たるものだろうが、内科医だって歯科医だって、毎日沢山の患者と応対しては、千差万別の病や怪我と戦わなければならない。そしてその忙しさにかまけて体調不良にでもなれば、「医者の不養生」ということで心配よりも不信感が先に寄越されることも多い。
しかしやはり外科、それも手術を行った後というのはやはり草臥れる。今回のキリエの患者は幸いにして然程命に別状の無い怪我ばかりだったが、これは運が良かったのだ。勿論より重傷である方が金にはなるのだが、それだって失敗すればこちらの金や命が危ない。
……金、そう。金といえば、
「まーたやっちまったわ」
今回の仕事は金にならない仕事だった。否、金の入ってくる仕事だったのに、ふいにしてしまった。だがまあ、それも仕方ない。いつものことではないが、良くあること。
キリエはごきりと肩の関節を鳴らし、今度は本当に欠伸をした。他人様には見せられない大口開きだが、別に目の前に人が居たところで憚ることは余りない。
「……部屋戻んのめんどいな」
疲れた、と認識した途端、先程まで冴えていた頭がぼうっとしてくる。先程まで嘘くさい欠伸の真似事しか出てこなかったのに、今は本気で眠いのだ。現金で気まぐれで困った睡眠欲求が、どんどん瞼を重くしてくる。
自室に戻ることをあっさり諦めたキリエは、そのままより近いリビングの扉を開け、身体を滑り込ませた。そして、設置されている革張りのソファに身体を横たえる。このソファは来客にも勧められるきちんとしたものなのだが、もっぱらこういう風にしか使われない可哀想な仕打ちを受けている。
「ふ、ぁ……」
ああもう、眠くてしょうがない。こういうときは無理に起きていたって何をする気にもならない。治療室は片付けなければならないが、それももう後に回す。飛び散った血も面倒だから後に回そう。最近の洗剤は良い仕事をするのだ。
「何で寝てんだよ!!」
ずるずると沈んでいく意識の片隅で、ローの怒鳴り声を拾う。
「ロー、デカイ声出したら可哀想だろ」
「だってコラさん!」
「先生も疲れてるんだ。話は後ででも出来る。今は良いだろ」
「ちぇっ」
気のせいでなければ、コラソンの声も聞こえた。
「それより、片付けでもしといてやろう。先生も疲れてるんだしな」
「……俺達もそうだろ。いきなりあんな目に遭ってさ」
ローの声音がトーンを落とした。怒られたか何かしたのだろうか。
何を話し合っているのか聞こえない距離では無いのだが、眠気に白旗を揚げている脳は、その意味を認識することを拒否し始めたようだった。喋っているのは分かるのだが、内容が頭に入ってこない。
「そうだな。けど、言いたかないがそんな珍しい話でも無かっただろ? それこそドフィー達んトコにいたときなんか、もっと大変だった」
「うん……」
「仕事終わったばかりだし、キリエ先生は女性だ。こういう雑用は男がやってやるべきだろ?」
「コラさん、すげえな。こいつを女扱い出来るなんて」
……よく分からないが、何か大変失礼なことを言われている気がする。しかし口を開くどころか目を開ける気持ちも萎えていたキリエは、結局口を挟むのをやめてしまった。
ずるずる、ずるずると、眠気がますます加速する。すぐ近くにいるのだろう2人の声が、もう少し遠ざかり、もう1枚ほど壁を挟んだようにぼやけて聞こえた。
「そんなこと言うもんじゃねえぞ。ロー。男なら女性には常に紳士的でないと」
「……キリエが女ってのもアレだけど、コラさんが紳士ってのもイメージと違う」
「何だとぉ?」
ローの笑う声が聞こえた。ついでのコラソンの笑い声も。キリエはうるせえよ馬鹿、と言ってやろうかと思ったが、やはり面倒だったのでやめてしまった。
そのうち2人の会話は少なくなり、代わりにバタバタと歩き回る音や、物を動かす音が聞こえていた。更には何かを落としたり割ったりするような嫌な音とローの悲鳴も聞こえてきたが、眠気に負けたキリエは結局、2時間後に目を覚ますまで一度も目を開けることはなかった。
そして、きっかり2時間後。
「……なんか色々なくなってね?」
一応綺麗にはなっていたものの、申し訳程度に飾っていた玄関の花瓶だとか、治療室の棚にしまっておいた注射器(使い捨て)の箱だとか、まあ無くなっても今すぐはまあ困らないだろう、という類のものが消失していた。
「こういう場合、フツー疑うべきはお前なんだろうけどな、年齢的に」
「ガキ扱いすんなブス」
「ブスで悪かったな糞ガキ。……お前だろ、コラソン」
「す、すまん先生……その、悪気は無かったんだが……」
「ったりめーだろ。悪気あったっつったら磨り潰してるトコだ」
「磨り潰す!?」
「何を!?」
にやりと凶悪な影を背負い、唇の端を片方だけ持ち上げたキリエに、怖気だった様子のコラソンとローが互いに抱き合いながら後ずさる。キリエは男2人の情けない様に一瞬で普段の気怠げな表情に戻ると、ずれた眼鏡を直して頭を掻いた。
「まァいーよ、別に。ンなたっけーモンでもねえからな。けどコラソン、お前もう治療室と台所は出入り禁止な。勝手に入って次なんか壊したら問答無用で鼻フックすっから」
「鼻フック!?」
「なんでよりによって!」
普段のキャラクター性は別にして、コラソンは普通にしていれば優しげな風貌の美青年である。その美青年相手に碌でもない脅し文句を口にしたキリエは、何でも無い顔で、しかし唐突に「取り敢えず全員リビング集合」と言い放った。
「なんだよ、急に」
不機嫌な顔でローが首を傾げる。キリエは小さく肩を竦めた。
「話があるだの何だのっつってたろ、さっき」
「……起きてたのかよ」
まん丸に目を見開いたローが、次に唇を尖らせた。子供扱いするなとしょっちゅう言う割に、こういう顔をする辺りはまだまだ子供だ。キリエはにんまり笑いながら、「半分だけな」と答える。
「っつーかコラソンお前、松葉杖つかなきゃ動けねえんだから片付けなんかしてんじゃねーよ。骨が歪んだらどうする気だ馬鹿野郎」
「あいて!」
今思い出した、とばかりにコラソンにデコピンをかますキリエ。本気で涙目になったコラソンが恨みがましげに睨んでくるものの、相変わらず堪えた様子は欠片も無い。
「ま、巫山戯ンのは一旦此処までにするとして」
「一番悪ふざけしてたのお前だろ」
「黙ってろチビ。……まあお前らの聞きたいことくらいは大体分かる。堅苦しいお話し合いは嫌いなんだが、一度くらいは付き合ってやるよ」
キリエの態度は普段と違わず尊大だ。しかし、珍しくローはそこに何も言わない。コラソンと同じように、やけに神妙な表情を浮かべ、言葉に惑うように唇を曲げる。
顔立ちなんて少しも似ていないのに、まるで親子のようだ。キリエは珍しく嫌味っぽく無い笑みを浮かべたが、それはほんの一瞬で消え、誰に見られることもなかった。