酔狂カデンツァ | ナノ


▼ 私と世界と肉食獣

指の飛んだ手を消毒し、手早く処置を施していく。くっつけることを早々に諦めたので、失血死と化膿、感染症を予防することだけを留意した治療だ。生き残った後のハンディキャップなど考えてはいない。
他の医者のことはさておき、キリエは安楽死など絶対に認めない。指を落とそうが不能になろうが、命を救うことを一番に考える。他のことは二の次三の次だ。賛否の分かれるスタンスであるという自覚もあるが、他者の賛同など最初から求めていない。
たとえこの後、指を無くしたこの男に後ろから刺される事態になろうが、そんなことすらキリエにとっては些事に他ならない。もっともその心配は、この男が『この後』どうなるかによっては、気にする必要すら無い杞憂に終わるのだが。

「……聞いてたとおりだな」
「あ?」

黙々と作業を進めていたキリエの耳に、嗄れた声が入ってくる。顔を上げず視線も向けず、意識だけをそちらにやった。

「『お人好しの鳴海先生』――テメエの命(タマ)狙うような馬鹿を助けるなんざ、正気の沙汰じゃねえ」
「……そういうスタンスなもんでね」

は、と短く息を吐く。

「そもそも、見ず知らずの人間に殺されかかる事態が狂気の沙汰でしょーがよ」
「ハッ、言うねェ」

裏社会の日常を常識にするな。キリエが言外にそう言ったのを、相手も感じたのだろう。にやりと薄暗い笑みを浮かべながらも、男はそれについては特に反論しなかった。

「だがよ、先生」

ようやく傷の痛みが引いてきたのだろう、少しばかりマシになった顔色。彼は椅子の背もたれから上体を起こすと、先程まで自分を『兄』と呼んでいた部下を睨めた。……見る者をぞっとさせる、凍り付くような殺気を纏って。

「その時間と治療の道具だの薬だの、無駄になるってことは考えてねえのか?」
「……」

嗚呼、言うと思った。キリエはそっと内心で嘆息する。義理人情を重んじる任侠……なんてのはフィクションだが、『この世界』は裏切りを許さない。要はそういうことだ。
仮にキリエが此処で治療をやめても、きっと『問題』は何一つ起こらない。強いてあるとすれば、もしかすると近々或いはずっと後になって、身元不明の男の死体が発見されるかも知れない……ということだろうか。

「そりゃ、あんたらが『落とし前』付けようとすりゃ無駄になンでしょうね」
「……」

今度は男が沈黙する番だった。空気が少し重くなる。キリエの手はその間も淀みなく動き続け、痛々しい傷痕に薬を染み込ませたガーゼをあて、包帯を巻いている。

「そりゃあ先生、なかなか難しいことを言いなさるな」
「でしょーね。私もまァ、おたくらの業界の事情はある程度存じ上げてますとも」

分かった上で言ってンですよ。ぐったりした『下っ端』の手を包帯でグルグル巻きにしたキリエは、至極真面目な顔を上げて男を見返した。

「仮に俺達が、そいつを『うっかり』逃がしちまうとして」

じろりと、眼鏡の奥で冷たい双眸が瞬く。

「その代償は先生が払ってくれるってことで?」
「まさか」

挑むような声音に対し、しかしキリエの回答は簡潔で冷淡だった。「そこまでする義理もないんで」とあっさり言い放ち、逆に男を拍子抜けさせるほどだった。

「ただまァ、医者としての義務ですよ。折角治療した患者が早死にすんのは心苦しい。そんだけの話です。私だって人間ですからね、ロー……あのチビ助の手前あんなこと言いましたが、自分に銃口向けられて笑って許せるほど人間出来ちゃいませんよ」
「あんなこと? 先生、そりゃ何だ?」
「白々しい。ドア薄いんだから聞こえてたでしょーが」

渋面を作るキリエ。その様子がおかしかったのか、男はくくくと喉の奥で笑った。刺々しく冷ややかだった目つきが、ほんの僅かにだが、和む。

「……なァ、先生」

やおら男が改まった様子で口を開いた。かさついた唇で、掠れた声を引き絞るように。

「先生はよ、患者を差別しねえんだろ?」
「……? ああ、まァ『患者』なら」

よく分からない質問だったが、取り敢えず首肯しておく。実際問題として、キリエにとっては此処に来た怪我人・病人は皆等しく『患者』だ。症状の程度によって治療の優先順位や処置を決めることはあっても、患者の地位や立場で贔屓をしたことは一度も無い。決して周囲に誇れる人生を送ってきているわけではないが、そこだけは唯一、キリエが胸を張れる部分だった。
躊躇うこと無く頷いたキリエに、男は満足げに頷く。

「なら、良いさ。要するに、俺等が何モンだろうと先生は治療するんだろ? それが保証されりゃ良い。銃口向けられてあんだけ啖呵切れる医者は少ねェからな。先生ぐれェ肝っ玉の据わった医者ンとこに今後も駆け込めるってんなら、それで十分だ」
「……つまり?」
「俺ァ今からちっと休む。ま、1時間くらいだな。その間なら、『ネズミ』がどっかに逃げようが何しようが知ったことじゃねえよ」

そう言うなり、男はわざとらしく鼾をかき始めた。へたくそすぎて笑ってしまいそうだった。事実、キリエは口の端を歪め、ほんの僅かの間だけ笑みを見せた。
しかしそれは本当に一瞬だけで、キリエは「おい起きろ」とぐったりした『下っ端』の頭を、軽くとはいえ乱暴にも蹴り飛ばす。

「私も、仕事が終わったらすぐ仮眠を取ンのが習慣でしてねェ」

『下っ端』が小さく呻いた。キリエはその肩に足をかけ、容赦なく踵で抉るように揺さぶり続ける。

「患者が現金を持ち合わせてない時は、帰り際に請求書を渡すことにしてンですよ。……けど困ったことに、たまーにそれやり忘れて寝こけることがあって」

男はまだ鼾をかいている。うっすらと目を開けた『下っ端』が、焦点の合わない眼でぼんやりとキリエを見上げる。キリエは「起きろクソ野郎」と実に汚い言葉で彼を罵った。

「で、寝て起きると患者の顔を忘れちまうんです。何処の誰だったかももうさっぱり。お陰でもう何度も代金請求し損ねてんですよ」

ややあってようやく意識を取り戻した『下っ端』が何か叫ぼうとする。キリエは素早くその口を塞いだ。もが、と間抜けな呼気混じりの声が響く。

「だからまァ、普段は意地でも患者が帰るまで起きてンですが……なーんか、今日はもうすっげえ眠くて。『ネズミ』を追っ払ったらそのまま寝ちまいそうなんですよ」

早く出ていけ。口の形だけでそう伝える。男はぎょっとして目を瞠り、『寝ている』男とキリエを交互に見比べた。文字通り目を『白黒』させる様が、何だか滑稽でならない。

「ふぁーあ」

壊れた銃もそのままに、泡を食った様子で逃げていく背中。それを見送って、わざとらしく欠伸の真似事。「あー眠ぃ眠ぃ」という独り言も、酷く芝居がかっている。
ぐー、と鼾をかく男の表情が、一瞬笑いを堪えるようにぎゅっと強張った。

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