酔狂カデンツァ | ナノ


▼ 囚人のための病室

「ったく……」

渋りに渋って、それでもようやくコラソンに連れられたローが部屋に引っ込んだのを確認し、キリエは深々と嘆息した。
好奇心と言えばいいのか、向学心と言えばいいのか。或いはただ単に、反骨精神のようなものなのか。仕事柄と本人の性格故に、子供と殆どふれあった経験の無いキリエには、ローが何を考えているのかはよく分からない。
妙に拗ねたところがあるが、屈折しているだけで人格的に歪んでいる訳ではない。捻くれているくせに、人並みかそれ以上の正義感らしいものが垣間見えることもある。少なくとも、キリエの仕事に嫌な顔をするくらいには、理想を高く持っている。

――ま、好きにすりゃ良い。

キリエが責任を持つのは、あくまでローが治るまでだ。治ったあとのことは本人が決めれば良い。キリエが教えるのはあのインチキ臭い『悪魔の実』の能力の使い方だけであって、医者としての思想でも善悪の価値判断でもないのだから。
100人医者がいれば100通り、とまでは行かないが、まあ30から40通りくらいは意見を異にする考え方があるだろう。そもそも医者になるのか否かも含めて、キリエにローの人生をどうこうする権利などない。
あるとすれば、今の時点で彼の『主治医』として、彼の命の時間をできる限り元に戻してやることだけだ。

「……そろそろ始めますか。麻酔は無しでいいんですっけ?」

局麻も一応あるけど、と一言付け加えてみるものの、『兄さん』は首を縦に振らない。にんまりとイタズラ小僧のような笑みを浮かべて、ちらりと部屋の扉を見やる。

「敵が多いもんでな」
「さいですか」

患者の事情に深くは突っ込まないのが、この仕事の鉄則である。これは闇医者に限った話ではない。治療に必要なこと以外は、なるべく掘り返さない方がお互いのためなのだ。患者が自分から喋る分には構わないが、そうでないことは聞かないに限る。お互い、藪を突いて蛇を出すような真似はしない方が良い。

「じゃ、悪いけど両脚だけは固定しますね。……手は大丈夫で?」
「はははっ。心配しなくても、怪我にゃあ慣れてんだ。痛みに負けて引っ叩くような真似はしねえよ、先生」
「言質取りましたかンね、今」

両脚を台の上に載せ、バンドで固定する。診察椅子の背もたれを限界まで倒す。一応一言断ってからズボンの布地を裁ちバサミで切り裂いて、傷口と周囲の皮膚を露わにする。最後に、拘束用とは違う止血バンドを、傷口の上下につけた。

「あ、これどーぞ」

思い出したようにキリエが渡したのは、小さく折りたたまれたタオルだった。

「舌噛んだらヤバイんで。あと食いしばりすぎて歯ァ折る奴もいるし」
「……ああ」

何とも言えない顔で得心した『兄さん』は、しかしそれでも素直にタオルを自らの口に押し込んだ。当然であるが滅菌済みであるので、衛生面の心配はない。
キリエはコキリと肩を鳴らし、何とも気の抜けた声で宣言した。

「んじゃま、手術(オペ)始めまーす」

暗転。

  ◇◆

――全く、気に入らない。

彼は不機嫌を表情にも態度にも隠さず、ぶらぶらとその辺を歩いていた。あのいけ好かない女の医者から追い出されてどれだけ経っただろうか。そろそろ戻っても良い頃合いだろうとは思うが、またあの女と顔を合わせると思うと嫌になった。
10人人間がいるとして、そのうち2人は無条件に自分を嫌う人間なのだという。となれば、あの女にとっての自分は、間違いなくその10人の中の2人だと言っていい。兎に角、最初に顔を合わせた瞬間から、兎に角気にくわなくてならなかった。

『鳴海先生に連絡しといた。お前にゃ悪ィが、連れてってやってくれ』

医者にかかるほどのことじゃねェと不満げだった兄貴分を、それはもう見事な弁舌で言い含めた男は、何処か自慢げにこう言った。

『若ェが腕は良い。秘密も守る。良い医者だ。お前もきちんと挨拶しとけよ』

滅多に人を褒めることがないあの男が言うから、彼は正直どんなものかと多少期待していたのだ。漫画のようなとまではいかないが、それなりに風格のある、自分達と同じような影のある人間が出てくると思っていたのだ。ついでに、性別は男。
だが、実際はどうだ。一言で表するなら、瓶底眼鏡の野暮ったい女。マスクのせいで顔は半分分からなかったが、年齢は20代半ばに達していれば良い方だろう。口も悪いし態度も悪い。こちらを不快にさせることに関しては天才的だとすら思った。

「金輪際、あんな女に頼るなんざクソ食らえだ……」

くわえ煙草を排水溝の下に落とし、腕時計を見る。医者の家を出てから、大体1時間が経過していた。流石にパチンコに行く気にもなれず、ただぶらぶらしていただけだったのだが、それなりに時間はつぶせたらしい。

「……」

スーツの胸元にそっと手をやれば、硬い感触が布越しに伝わる。その輪郭を指で確かめながら、彼はくるりと踵を返した。
戻らなければならない。あの女の家に。……彼の『兄さん』の元に。

「チッ」

小さく舌打ちをしたものの、大して間を置かず来た道を戻る。流石は一等地にあるだけあって、周囲の道路は整備されており、人通りもそれなりに多かった。殆どが隙だらけの素人だが、たまにちらほらと見える同業者や、『こちら側』に1歩踏み込んでいる連中。
そういう奴らをまとめて威嚇するように、肩を怒らせて歩き続ける。どすどすと足音をわざと立てるように、大股で。

「あァ、お早いお戻りで」

やがて見えてきた建物に入り、扉を開けば、何故かあの医者が煙草をくわえて廊下に立っていた。

「兄さんはどうした、テメエ」

髪をしまっていた帽子も、顔の半分を覆っていたマスクもない。ただ水色の術衣に、所々黒ずんだ染みを付けた女が、ひらりと笑いながら手を振ってきた。何故か分からないが苛立ちが増し、ぴきりと彼のこめかみに青筋が浮かぶ。

「心配せんでも、手術は無事成功しましたって」
「当たり前のこと言ってんじゃねえ。万が一でも失敗してたら、テメエの両脚を代わりに貰って帰るところだ」
「は、物騒なことで。……本人は起きてますよ。ただ麻酔しませんでしたからお疲れでね。もうちっと休ませてやって欲しいんだが、ってちょっとちょっと」

鬱陶しい女の戯言など聞いていられない。手術は終わった。『兄さん』が疲れている。疲れていて動けない。それだけ聞けばもう十分だ。あとのことなどどうだっていい。
……あとはもう、どうにでもなる。

「待てっつってんだろーが、コラ」

適当に靴を脱ぎ、『兄さん』がいるだろう治療室に入ろうとした彼の腕が、存外強い力で掴まれた。思わず「あァ?」と思い切りメンチを切ったが、それを受ける女は欠片も動じた様子が無い。それどころか、人の話聞けやコラとばかりに睨み上げてくる。

「あのなあ、此処は私の病院で私の家なんだよ。此処では私が何よりのルール、患者だろうと付き添いだろうと勝手な真似は控えて貰う」
「ハッ、勝手な真似だァ? 俺が兄さん見舞うのの何処が勝手だか言ってみろ」

火の付いた煙草の苦い香りが鼻につく。女のくせに甘みも可愛げも無い銘柄を吸っているらしい。この不貞不貞しい女にはぴったりだ、と思わず鼻で笑った。
女は深く吸い込んだ煙草の煙を、意味ありげに、殊更深く吐き出した。こちらにぶっかけて来なかったのは、せめてもの礼儀だろうか。他のところでも、もう少しそうやってしおらしくしていれば良いと思った。

「あーはいはい。別に好きにすりゃいいさ、見舞うだけならね」

けどな、と加えた煙草を噛みながら、女は酷く冷めた目で彼を睨む。

「あんたらがヤクザだろうと何だろうと、此処での流血沙汰はNG。ましてや暗殺なんざ何があろうとお断りだ」
「……!」
「どうしても部屋入るってんなら、懐の『ブツ』此処に置いてけ。この三流野郎」

下から上に舐めるように啖呵を切り、左手の親指を下に向ける。瓶底眼鏡の奥で、気怠げな目の瞳孔がしっかりと開いているのが見えた。

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