酔狂カデンツァ | ナノ


▼ 慈しみに欠ける黒

つん、と遠慮無しに鼻腔を突いた臭い。キリエは小さく眉を寄せた。

「おーおー、随分思い切ったやられ方してますねえ」

嗅ぎ慣れた臭いではあるが、快か不快かと言われれば間違いなく不快。派手な柄シャツと仕立ての良いグレーのスーツを身に纏った男が、キリエの他人事極まりない感想にケラケラ笑った。気が良さそうで、全体的に若作りというか、所謂『イケてるおっちゃん』という感じであるが、やはり目つきが堅気とは違う。

「ちいとばっかし油断しちまってなあ。思わず自分の年を数えちまったよ」

負傷した男は、こめかみに刃物の傷痕が残る大柄な男だ。年齢は40前半程度で、先程『治療予約』の電話をしてきた男とは大体同じくらいの年齢に思われた。多分若いときは2人揃って鉄砲玉に近いこともやっていたんだろうなと、キリエは勝手に推測する。

「兄さん、ンな暢気なこと言ってる場合じゃねえでしょう」

先程初対面にもかかわらずキリエに喧嘩を売ってきた方は、どうやら部下であったらしい。こちらはもっと大人しめな色合いの背広姿で、身長も『兄さん』より10センチばかり低い。
彼は相変わらずキリエの態度が気に入らないようで、先程から何かに付けて睨んでくる。取り敢えずキリエは、勝手に彼らを『兄さん』『下っ端』と心の中で呼ぶことにする。

「思い切りが足りねえ傷だなあ」

キリエは『患部』の位置を気にしながら呟いた。視線の先では、男の太ももの付け根近くにぶっすり食い込んだままでいる、カッターナイフの刃があった。
傷口から3センチばかりのところで折られている。カッター本体は邪魔だから取り除いたが、刃は止血のために残したのだろう。

「急所は避けてますね」

傷口の深さは何とも言えないが、失血量は恐らく700ミリリットル程度。そして目測だが、この男の体格から大体の体重を算出して考えると、全体の血液量は少なく見積もって約6500ミリリットル。おまけに傷ついているのが静脈だけであることを考えれば、確かに怪我の程度は『軽傷』である。

「もう3センチ内側に寄ってたら危なかった」
「嗚呼、その辺やると大体死ぬよな。太い血管があんだろ?」
「ぶっとい動脈がありますよ。それに内股の方は誰しも筋肉量少ないですからね、同じ力でそっち刺されてたら今頃意識ないですよ、あんた」
「はっはっは! おっそろしいなぁ、先生!」

恐ろしいなどと言いながらも、傷を負った『兄さん』は鷹揚に構えている。『下っ端』が咎めるように「兄さん」と呼んだ。次いで、キリエをじろりと睨み付ける。

「おい、医者ならさっさと治療しろ!」
「へーへー。じゃあこっちにどうぞ。手術台使う程じゃないんで、中の診察椅子座らしてやって。……靴は脱げ!」

『兄さん』の肩を支えた『下っ端』が、土足で踏み込もうとしたのを目敏く見咎めたキリエ。『下っ端』は小さく舌打ちをしたものの、今度は「おい」と『兄さん』に窘められて渋々靴を脱いだ。
『兄さん』の靴は、キリエが代わりに脱がせて玄関に置かせる。

「あ、あそこの部屋、今入院患者いるんで立ち入り禁止ね」
「……言われなくても入ったりはしない」

『下っ端』は診察椅子に『兄さん』を座らせながら、面倒くさそうにキリエを見た。さも「心外だ」とでも言いたげなその表情に、キリエは微かに片眉を上げる。

「――フーン? そんならそれで良いけど、でも治療中は此処以外にいてくださいよ、気が散るんで」
「ああ?」

今度は『下っ端』が片眉を上げる番だった。キリエと違って不平不満を隠すこともなく、辛うじて取り繕っていた柄の悪さをあっさり出して、キリエを見下した。

「テメエみてーな得体の知れねェ医者と2人だけにしろってのか?」
「当然だろ。患者でもない上、消毒もしてない異物に治療室いられちゃ邪魔だ。何より私の気が散るんだよ」
「あ゛ァ!? 何様だテメエ!?」
「おい、やめねえか」

黙っていた『兄さん』の制止が入り、『下っ端』はもごもごと口を噤む。

「悪ィな先生。どうも心配性な奴らしくてよ」
「いえ別に。取り敢えずこの部屋から出てってくれれば私はどうでも良いんで」
「はは……おい、先生の言う通りにしとけ。何なら一服してても咎めねえよ」
「し、しかし……」
「良いから出ろ。俺も好い加減治療を受けてえんだ」

やんわりと、しかし有無を言わせぬ口調に、渋々と背を向ける『下っ端』。どすどすと足音を鳴らし、乱暴な動作で扉に手をかけ、開く。

「どわあ!!」
「うお!?」

そしてその途端に上がった悲鳴と、どすんどすんと重たいものの落ちるような音。当事者達は勿論、側で見ていたキリエも『兄さん』をぎょっと目を剥く。
しかしまあ当然と言おうか、家主であるキリエが我に返るのが、他の誰よりも数秒は早かった。

「……何してんだ、コラソン」

恐らく、部屋の扉にもたれかかっていたのだろう3メートル近い大男の顔を覗き込み、胡乱げに見下ろす。
180センチ弱の長身である『下っ端』も、コラソンとは倍近く違う。コラソンの身長がそもそも規格外なのだが、当然そんな巨体に思い切り(不可抗力とはいえ)倒れ込まれれば、咄嗟に持ちこたえるのは無理だったのだろう。

「いててて……す、すまん先生。その、別に盗み聞きする気はなかったんだが……」
「……まァお前らが聞いて困る話もしてねーよ。つか、早くそこどいてやれ、潰れてる」
「うお!? す、すいません!」

どうやら自分が下に敷いていた人間に気づいていなかったらしい。ほっぽり出された松葉杖を握り直し、慌てて横に退けるコラソン。押し潰されていた『下っ端』が、のろのろと顔を上げた。

「て、テメエ……!」

物凄く怖い顔をしているのだが、いかんせん、一部始終を見ていた人間からするとただのコメディにしか見えないのが困ったものだ。辛うじて彼のプライドを汲んでやったキリエは、噴き出すのを堪えて「ちょっと」と割って入る。

「喧嘩は此処ではやめてくれ。そろそろ本当に治療始めたいんだ」
「……チッ」

両手をポケットに突っ込み、もうチンピラにしか見えない態度で、『下っ端』は大股で部屋を出て行く。どうやら本当に一服してくるつもりらしく、玄関の重い扉が開く気配。
そしてその扉が閉まりきる直前に、ガンッッ、と何かのぶつかる音がした。

「気ィみじけーなァ……」

多分、八つ当たりでその辺の壁でも蹴り上げたのだろう。キリエが思わずぼやくと、「うちのがすまねえな、先生」と『兄さん』が苦笑を浮かべた。

「いいっすよ別に。それよかさっさと済ませましょうか。時間食い過ぎた」
「あ、先生。その……」

もごもごと口ごもるコラソンに、キリエはぴしゃりと言い放つ。

「お前も早く部屋戻れ。……ローもな」

開け放たれた入り口の影に隠れていた子供が、びくりと肩を震わせるのが微かに見えた。

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