酔狂カデンツァ | ナノ


▼ 美しい人のリアル

『こんな仕事』を続けるために一番必要なのは、何も手術や治療の腕だけではない。そういう『医者として』当たり前で不可欠なものを除けば、最も重要なのは『信頼』である。
信頼。信じ頼ること。血で血を洗うだとか、昨日の友は今日の敵だとか、そういう表現は多少オーバーだとしても、所謂『真っ当な』人間には想像もつかないどす黒さがあるのが裏の世界である。そんな中で、『信頼』なんて言葉は紙より軽い……というわけではない。寧ろこんな世界だからこそ、その2文字は口にする人間と同じ重さの金塊よりも、ずしりとのし掛かってくるものだ。
特にキリエのように、あらゆる勢力からの『中立』を保つ者にとっては。

「はいはい。軽傷1名、刺し傷ね。傷の場所と出血量は? 意識はちゃんとしてるんですよね? 指1本立てて見せても『2本見える』とか言ってません?」

年頃の女、それも社会人としてはどうしようもない、敬語と呼ぶのもおこがましい敬語を使いながら、話を詰めていく。
キリエのスマートフォンに連絡を寄越したのは、何度か診察・治療の経験がある、某暴力団の組員だった。今回は彼の同僚が下手を打ったらしい。

「しかしまあ、この真っ昼間からご苦労さんなことで……失礼、別に馬鹿にしたわけじゃねっすよ」

相手がヤクザとは思えない口の利き方だが、電話の相手は所謂『インテリヤクザ』で、最低限の義理を忘れず、仕事さえ真面目にこなせば比較的寛大な部類の人間だ。気心が知れている訳ではないが、ビジネスの相手としての『信用』はお互いにある。

「あ、そうそう。いまうち入院してる患者が2人いるんですよ。……あー、そりゃ平気です。ただの不法入国者なンで。ええ、そうそう。別に珍しくないでしょ。ねえ? ……はいはい。じゃ、20分後に待ってますよっと」

念のため、『患者』が入院しているという情報は先に開示しておく。今日の相手であれば事後でもあまり問題はなさそうだったが、社会で溢れている『言った言わない戦争』ほど不毛且つ面倒なものはそうそう無いのだ。幸い、キリエの予想通り今日の客は『入院患者』に特段の興味を持たなかったようなので、まあ問題無いだろう。

「――さて」

気怠げにガリガリと頭を掻いて、半分ほど吸わないままただの灰になってしまった煙草の火を消す。ベランダに置きっぱなしの灰皿には、既に幾本かの煙草の吸い殻が放置されたままである。
後で捨てよう、と適当なことを考えて部屋に入ったキリエは、取り敢えず戸棚にしまっておいた術衣を取り出す。クリーニングと消毒済みの、ほぼ新品に等しい水色のそれを手早く着込み、あまり手入れされていない髪の毛を帽子でしまう。マスクも着用する。顔の半分以上を覆うそれは、しかし眼鏡を曇らせないように設計された最新・最高級のものだ。
次にリビングを出て『治療室』に向かい、設置している水道で肘のところまで石鹸で念入りに手洗いをする。きちんと乾かしてからアルコール消毒も行い、手袋をする。
そして今度は、一応部屋中に消毒液を振りまく。自分の術衣にも同じように振り掛ければ、アルコール臭さに少し鼻がつんとした。無影灯をつける。消毒済みの医療器具と最低限の薬品を並べておく。

「よし」

一通り自分の準備を指さし確認して、漏らしがないことを確認したキリエは満足げに頷いた。満足げ、とは言ったものの声音からそれが伺えるだけで、普段のだらけきった顔も、へらへらとした笑いもすっかり影を潜めていた。

「……おい」
「ンあ?」

やらないよりマシというレベルだが、念には念を。廊下にもアルコールを撒こうと治療室を出たキリエの背後に、精一杯低くした子供の声がかかった。

「此処で何してる、ロー。コラソンと一緒に部屋入ってろっつったろ」

正しくはローにではなく、コラソンに言ったのだが。……しかしコラソンはあれで素直に――吸おうとして火をつけた煙草を消そうとして火傷するくらいには慌てて――部屋に戻ったから、ローが聞いていない筈も無い。それにコラソンは目に見えてローに過保護なところがあるから、室外に出ることを了承したとは思えないのだが。

「コラさんは部屋ですっころんで頭打って気絶してる」
「あの馬鹿……!」

思わず頭を抱えそうになったキリエである。今頃頭にどでかいコブをこさえているだろう大男に舌打ちしてみるが、当然本人に届くわけもない。

「……つか、お前もっと心配しろよそこは。頭打ってんだろ」
「脈も瞳孔も正常だったからそのままにしてる。コラさん石頭だし」
「やなガキだなマジで」
「うっせえブス。……んだよ、まともな医者みてーなカッコしやがって」

水色の術衣姿のキリエを睨むローは、少々複雑な顔をしていた。忌々しげなようであり、煩わしげであり、しかし何処か物寂しげでもあった。子供心も男心も、そして医者に乱雑に扱われた患者の気持ちも知り得ないキリエに、それを性格に読み取る術はない。
その代わり、というのも妙だが、普段ならお決まりの「医者だからな」という茶化しを入れてやるところを、一応空気を読んで黙っていてやる。

「患者が来るのか」

あと1分待っても本題に入らないなら部屋に叩き帰そうと思ったところで、ようやくローが口を開いた。子供のくせに濃い隈に縁取られた眼が、瞬きも禄にせずキリエを見上げる。
何だそのことか、とキリエは内心溜息を吐いた。

「来るよ、あと10分もしないうちにな。だから引っ込んどけ。電話してきた兄さんは割合道理の分かるタイプだが、患者だっつう兄さんの同僚はどうか分かんねェからな」
「何が来るんだ? 殺し屋か? マフィアか?」
「ヤクザだよ。ジャパニーズマフィア。根城はここから1区離れた繁華街」
「……助けるのか?」

ゆらり、とローの瞳が揺れた。キリエは、今度ははっきりと溜息を吐いた。

「助けるよ。それが仕事だ」

たとえ1000人殺した殺人鬼だろうが、巨額の金を横領して酒池肉林を築き上げた汚職政治家だろうが、ヤク転がししか能の無いチンピラだろうが、身体を治すために此処に来る以上は同じ患者。少なくとも、キリエは医学部を出て以来、ずっとそのつもりでこの碌でもない仕事をしている。
万人に正しいと認められることではないだろう。寧ろ、とんでもないと指を指されることの方が良いだろう。『悪人』をわざわざ助けるなんて、馬鹿げたことだと声高に言い放つものが、この世界にどれだけ沢山いることだろう。――けれど、別にそれは構わない。キリエは、自分が『正しいかどうか』という物差しで、この仕事を考えたことなど無いのだ。

「助けられる命を助けるのが医者だ。だから助ける。私に、人間としてのモラルだのなんだのを求めんのはやめろ。そんな小難しいことを考えンのは、とっくの昔に放棄してる」

医者を目指すと決めたのは、幼い頃だった。憧れだけで目指していたあの頃の自分が、今の自分を見たらどう思うかと、時には考えなくもない。自分が薄汚れていると感じることなど茶飯事だ。間接的な犯罪行為の幇助と言われることもある。自分でもそう思うことすらある。それでも。


「難病にかかった子供だの、余命宣告された父親だの、綺麗な顔に傷が付いた娘さんだのってのは、誰だって助けたくなンだろ。可哀想だからな。助けてやりたいってみんな思うだろ。私だって思う。……でも、そういう奴らには、誰かが手を差し伸べるもんだ。その手が間に合わなくたって、誰かが可哀想って哀れんでくれるもんだろ」

――それでも。

「だから1人くらい、誰も助けたいと思わない、誰も可哀想と思わないような連中を、率先して助けようとする奴がいても良いと思ってる。……それだけだ」

そうじゃなきゃ、見るからに面倒くさそうな難病のガキと重体のデカ男なんぞ拾ったりしねぇよ。

「……っ!」

びくん、とローの肩が震えた。相変わらず肉付きの悪いそれを、ぽん、と手袋を嵌めたキリエの手が叩く。

「ほら、もう部屋戻れ。そろそろ……」

玄関の方で、インターフォンが鳴った。もう時間かと、キリエの唇から小さな舌打ちが漏れる。

「戻れ、ロー」
「っ、けど」
「ロー」

いつになく強い口調で名を呼んだ。ローはぐっと唇を噛むと、振り払うように踵を返して廊下を走っていく。扉が閉まる音を確かに聞いてから、キリエは玄関へと向かった。

「鳴海キリエか?」
「そうですよ」
「……応対が遅いな。本当に腕は確かなのか?」

扉を開けるなり、仕立ての良いスーツを纏った……しかし明らかに堅気ではない強面が、ギロリとキリエを見下ろす。一般人であれば思わず硬直するであろう眼力であるが、キリエにとっては慣れたもの。一応言葉だけ謝罪を口にしながら、ひらひらと手を振る。

「すいませんねェ。患者の寝付きが悪かったモンで」

盛大な舌打ちが聞こえた。鼻を血臭が突っついてくる。キリエは小さく舌を出しながら、患者を入れるべくドアを大きく開いた。
電話をしてきた男は付き添っていないらしい。……面倒だなと、こっそり顔を顰める。堅気の世界でもヤクザの世界でも、出会い頭に文句を付けてくるような奴は碌なモンじゃないのだ。

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