酔狂カデンツァ | ナノ


▼ 掴み損ねた奇跡

ブゥン、という、たとえるなら一昔前のデスクトップPCを立ち上げる時のような音とともに、薄青いドームが形成される。

「そうだ、そんな感じだ」

小さな肯いは恐らく聞こえているのだろうが、その円の中心で顔を強張らせているローに、返事をする余裕はないらしい。男もそれを分かっているので、咎めたりはしない。しかしキリエの知る限り、この男がローを特段叱るようなことは、今まで一度も無かった。

「良いか、イメージが大事だぞ。何処までを能力の圏内にするかのイメージだ。範囲対象をきちんと決めて、その意識だけは使用中は外しちゃ駄目だ」

続く男の言葉にも、ローは無言だ。だが、こくりとその小さな顔を上下に動かす。彼がその切れ長の瞳ではっしと睨み付けるのは、テーブルに置かれた林檎だ。極々普通の、八百屋でもスーパーでも何処ででも売っている果物である。日本で最も一般的な、赤色の皮に包まれたものだ。

「ん……」

見習いの画家が模写の対象としてそうしているかのように、何処か特別な感じにぽつりと置かれた林檎。それがふと、翳されたローの手に呼応するように動き出す。ふわり、とテーブルから離れて浮いたかと思えば、ゆらりと右に寄り、次に左。

――ユリ・ゲラーみたいだな。

かつて日本に、或いは世界に、空前の超能力者ブームを呼んだかの超能力者を思い出す。スプーン曲げ、念力、そして透視。その他色々。彼らの言う『オペオペの実』とやらの能力は、どうもそういう超能力にとても近いものだというのがキリエの分析だった。
事に寄ればインチキだのトリックだのと、世界中の学者や手品師から批判を浴びるだろうそれが、今目の前で、本当に『種も仕掛けもなく』繰り広げられている。世の中には不思議なことが沢山あるものだと、キリエは暢気に構えるしかなかった。
そもそも、こいつらが目の前に現れたこと自体、そして今もなおこの家に暮らしていること自体が、正直オカルト染みていてどうしようもないことなのだから。

「あっ!」

ぼとん。と、頼りなげにゆらゆら浮いていた林檎が、糸の切れた人形のように落下した。
キリエは咄嗟に手を伸ばそうとしたが、間に合わずに床に落ちる。あーあ、と呟きながら拾い上げたそれには、小さな傷が出来ていた。

「これも今日のおやつだな」

林檎は良い。ビタミンが豊富で消化も良い。1日1個の林檎で医者いらず、等という言葉がヨーロッパに残っている程だ。そして何より美味い。酸っぱくてもお菓子にしてしまえば幾らでもある。料理のバリエーションも豊富だ。
しかしそれこそ『1日1個』ならまだしも、3つも4つも食べるとなれば、腹も膨れるし飽きもする。

「くそっ」

ローは悔しげに歯ぎしりする。その隣、今し方動かしていた林檎が載っていたテーブルに、もう1個新しい林檎が置かれる。傷のついた林檎は、キリエの横に設置されている棚に置かれた。そこには、同じように傷がついたり、凹んだりした林檎が、他に4つ置かれている。
まずは目の前にある『物体』を自由に動かせるようになること。『オペオペの実』の能力を聞かされたキリエが、最初に考えた課題がこれだった。

「ラス1な」
「う……」

平然とキリエが言い放つのに対し、ローは酷く恨めしげで不満そうな顔をする。しかし、相も変わらず白斑がくっきり浮かんだ顔色は悪い。キリエは面倒くさそうに舌打ちした。

「お前の体力と練習意識の問題だ。連続30分以上の練習は認めない。お前も合意しただろうが」
「でも……」
「でももだっても無ぇっつの。医者の見立てには従うもんだ」

別に意地悪で言っている訳ではない。これは誰も知らなかったことなのだが、この『オペオペ』の能力とやらは、使用者の身体に結構な不可をかけるらしいのだ。この訓練を始めた初日、加減が分からず何度も林檎を動かす練習をさせていたキリエは、1時間を大幅に過ぎたころ、ローの顔色が酷く悪くなっていることに気づいたのだ。
キリエは生まれて初めて眼前で見る『超能力』に気を取られていたし、能力の使い方を教えた男も、それでそこまで疲労を覚えたことはないらしい。ローもローで、多少疲労を感じても何も言わなかった。

『だから体調はこまめに報告しろ!! 馬鹿たれ!!』

と、拳骨を容赦なく落としたキリエは、その直後深く腰を折って謝罪した。医師として、患者の体調に気を配るという当たり前のことを失念していたのだ。本当ならば謝罪では済まされないことだった。
そういうわけで、ローの『能力』の訓練は、一度に30分までという制約が加えられた。それ以外はキリエが許さないし、男も許さない。必ず20分以上の休憩を挟まなければ、次の訓練には臨ませなかった。

「大丈夫だ。ロー。落ち着いてやれよ」

やんわり笑んだ男に、まだ少し強張った顔のローはそれでも頷く。そして再び、目の前の林檎を親の敵のように睨み付けた。
薄青いドームが再度形成される。キリエは試しに、自分の目の前まで広がったそれに触れようとしてみた。……が、当然触れられない。これはあくまで『視覚的』な目印らしい。かの漫画の神様が描いた医師が用いるような、防菌のための絶縁シートとは違うようだ。
林檎が浮く。ゆらりゆらりと右に左に。それはベッドに腰掛けたローの目の高さぐらいで静止する。1秒、2秒、3、4、5秒……10秒。

「く……っ」

ぷるぷると小刻みに震え出す、ローの左手と林檎。それでも何とか浮遊体勢を崩さず、林檎はやがて覚束ない様子で動き出した。伸ばされたローの左手目指して、ふわりゆらりと飛んでいく。
ごくり、と男が固唾を呑む音が聞こえた。キリエも瞬きを忘れる。1メートルほど離れた場所にあるテーブルから、林檎だけが徐々に距離を縮めていく。
ゆっくり。ゆっくり。もどかしくなるような速度で、林檎が動く。ローもはやる気持ちを抑えているのだろう。疲労だけではない理由で、額に脂汗が浮かんでいる。男がそれを拭ってやろうとして、しかし集中の邪魔になると思い直したのか、居住まいを正した。

「あっっ!?」

ようやく指先に触れる、というところで、哀れ林檎は再び落下した。

「はい、失格。30分過ぎたし、一旦ストップな」
「くそっっ!!」

心底悔しそうに歯ぎしりする少年を励ますように、男がその薄い背中を撫でた。

「けどまあ、上手くなってる。次はもっとちゃんとやれるさ」

ぶすっと頬を膨らませるローは子供だ。苦笑気味の男の顔には慈愛が溢れている。まるで親子のようだと、キリエは思った。
その場では勿論、口には出さなかったのだが。

「おい」

後頼むぞ、とふて腐れたローを顎で指せば、男は分かっているとばかりに頷いた。キリエは駄目になった林檎のうち1つ、特に傷が大きいものを選んで取り上げると、そのままキッチンに向かった。

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