酔狂カデンツァ | ナノ


▼ 使えない善意

『インフォームド・コンセント』という言葉がある。直訳すると『伝えられた合意』、もっと詳しく説明すると、『正しい情報を得た上での合意』という意の医療概念である。
例えば一昔前であれば、末期癌などのほぼ確実に死に至る病を背負う患者に対し、敢えてその絶望的な病名病状を告げず、ただの胃潰瘍や盲腸などのありふれた病気として通達することが普通であった。真実の病気を隠された患者は、例えば『栄養剤』の名目で抗癌剤を服用させられたり、『睡眠薬』と偽ってモルヒネなどの鎮痛剤を投与されたりなどし、最後まで自身が死に至る病と知ること無く死んでいくパターンが珍しくなかった。
しかし、所謂『知る権利』というものが押し出されてきた昨今、医療知識のない患者に『病名』『症状』『投薬する薬の効用と副作用』『治療の成功例と失敗例』『手術の成功率』『術式』など、様々な情報を開示し、その上でどのような治療を受けるか(或いは拒否するか)を選択して貰うべきである、という考え方が主流になってきた。
これを『インフォームド・コンセント』といい、所謂クオンティティ・オブ・ライフ(寿命の長さなど定量的なものに重きを置く人生)からクオリティ・オブ・ライフ(充実度・精神の安定など定性的なものを重視する人生)が重視されるようになってきたのとほぼ同時に、この概念も発達してきたと言って良い。
これ自体には賛否がある問題ではあるが、確かに患者の立場からすれば、訳の分からない病を訳の分からない治療法で、勝手にどうこうされたくないという気持ちは、まあ理解出来る。しかし医師の立場からすれば、『ヒポクラテスの誓い』に一部反する考え方でもあること、自らの正義との兼ね合いもあって、なかなか難しい問題でもあるわけだ。
……しかし。

「まあ、取り敢えず落ち着いて聞け」

『これ』は正直、こういう問題とは全く無関係だなと、鳴海キリエは歯噛みする。
昏睡から解放され、更に3日ほど空けたお陰か、生死の境を彷徨っていた男はそれなりに喋ることが出来るようになった。まだまだ身体を起こすには至らないが、それでも回復は普通より早い。

「まず此処は日本国の首都東京、××区にあるマンションだ。日本国は国際連合加盟国で非常任理事国、そしてGDP世界3位の経済大国だ。基本的に温帯気候の島国で、太平洋に位置している。此処までは良いな?」
「にほん?」
「こくさいれんごー?」
「質問は後にしろ話が逸れる」

お前が聞いたんだろ!! と、体調はさておき、昏睡状態だった男が目を覚ましたことで精神的に安定したらしいローが吠えた。キリエは煩そうにしっしと犬でも払うような手振りをし、はふりと息を吐いた。全くもって、面倒な患者共である。

「コレを見ろ。ローには一度見せたが、これが今世界で出回っている一般的な世界地図だ。国によっては南北が逆だったり国境線が微妙に違ったりしてるが、大陸の形やらは、まあ基本同じだな」

所謂メルカトル図法の地図を見せる。途端、またそれかよ、と胡散臭そうに悪態を吐くローの隣で、男もまた胡乱げな顔をした。

「地図……? コレが、か?」
「コレがだよ。で、ローが言ってた地名だか何だか……ノースブルーだのグランドラインだのとかいう海域云々は、当然無いな。が、当然だが別に私の頭はイカれちゃいない。寧ろ私の方がお前らの妄想その他を疑ってたくらいだ」
「ふざけんな」
「良いからお前は黙ってろおガキ様」

話の腰折るンじゃねえ。デコピン一発。悲鳴を上げたローが大袈裟に仰け反った。

「しかしまあ、ローの話は子供の妄想にしちゃ一貫性があるし、世界観が妙に統一されてる。何よりスッカスカの妄想癖だけじゃ補えない医療知識もあった。現役やってる私も知らないようなものまで、だ。そんで、そこにきてあんたのその反応」

アンタ、とキリエが指さしたのは、当然だがローでは無く寝こけていた男の方だ。やけにデカイ背丈を狭いベッドに押し込めた様は、何というか、へたくそに畳んだ折りたたみ傘のような印象を受けて、少々滑稽にも映る。

「俺?」
「っそ。問診も兼ねてやった精神鑑定は正常。そんでもって、たまーに出てくる話の内容もローの証言と合ってる。取って付けた嘘なら、昏睡してる間に幾らか忘れたり思い込みが発生してておかしくないけど、それも無し。ということは、少なくともあんたらは精神に異常を来してるわけじゃない」

見ず知らず(というわけでは既にないが)の人間に精神異常者扱いされていたという事実に、男は少々嫌な顔をした。が、特に何も言わなかった。キリエも相手の本音はくみ取ったものの、それを気遣うことはしない。そもそも心療内科は門外漢なのだ。

「そんでもって、私も別にあんたらを騙そうとしてるわけでもないし、こんな地図まで作って自分の妄想に閉じこもってるわけでも無い。此処は日本、私は闇医者の鳴海キリエ。要するに、どっちも正常な人間だってこと。但し、お互いの『常識』ってものには恐ろしく開きがある。つまりどういうことか」

キリエは人差し指を伸ばし、相手と自分を交互に指さした。特に何を書き込んだわけでもないカルテを挟んでいるバインダーを、最後にべしりと指で弾く。

「今、日本では空前の天体ブームが起きてる。毎年の風物詩になってるものから、数百年に一度レベルの珍しいものまで、向こう3年は断続的に続くらしい。で、あんたらが現れたそのときは、その一番最初だった。……ほぼ完全な金環日食だ」

太陽と月、そして地球がほぼ一直線にならび、太陽が僅かな輪郭を残して月にすっぽりと隠されてしまう現象。
古来より、月には特別な魔力が宿るとされてきた。英語の『Luna』は狂気を表す『Lunacy』の語源であり、太陽暦では無く太陰暦を採用してきた国も世界には多い。アラブの国では『月のような』が女性に対する最高の褒め言葉だという。狼男が正体を現すのは満月の夜だ。徳の高いうさぎが餅をついたり、薬を練っているのも月である。
……非科学的だと言われれば、そうだろう。しかし、それ以上の理由は考えも付かない。

「私が思うにだが、あんたらは月に引き寄せられたんじゃないか。……それも、あんたらの知っている空に浮かんでいたのとも違う、『この世界』の月に」

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