戀という字を分析すれば | ナノ
 ××を紡ぐ

静かな夜だった。
物音一つしないような、そんな静けさではない。何処かで虫は鳴いていたし、近所の民家からテレビの音が漏れていた。遠くからは大通りを走っているのだろう、自動車の走行音も聞こえていた。鼓膜はそれらをきちんと捉えていたし、頭もそれを物音だと正しく認識していたと思う。
けれどその物音達が、ことによれば自分達の足音や衣擦れの音すら、どうしてだろう、まるで別世界のもののようで。薄い膜か、壁を隔てているかのように、それらはどうにも現実味がなかった。

「美しいな」

夏の真っ盛り、蒸し暑さ。風の無い夜。人通りの無い帰り道。
ほてほてとのんびり歩く中で、繋ぎ合った手の体温だけが、酷くはっきりと伝わってきた。

「何が?」

彼の声は遠かった。自分の声も、また。
答える自分はまるで自分でないかのように、熱に浮かされ微睡んでいるようだった。

「見ろ」

ほんの半歩先を歩く、彼の顔は見えない。いつも張り上げまくっている声はいつになく静かで、それがまた夢の中から響いているかのようだった。
それでも私の手を握る力が強くなって、私はその力のお陰で、今この瞬間が現実であると正しく理解出来た。

「満月だ」

見上げた先の空に星は無い。深い藍色の空に浮かぶのは、彼の言う通り満月だ。まるであの形の穴があって、そこから光が降り注いでいるようにも見える。うさぎの形をしたクレーターも、今日は酷くはっきり見えた。

「美しいな」
「……」
「何とも、美しい」

何処か、噛み締めるような響きだった。私の右手を握る左手に、また力がこもる。元々高い体温が、少し上がった気がした。手汗もかいている気がするけど、ふりほどこうとは思わない。

「美しい、月だ」

ぎゅう、と握り込まれた手が、少し痛い。

「ゆき」

痛いよ、と小さく告げたものの、手の力は一向に弱くならない。寧ろ強くなるばかりで、指先に痺れすら感じてしまう。

「ゆき?」

すまぬ、と聞こえた。小さく震えた声だった。それはあまりにも彼らしくない響きで、私は少しだけ驚いた。
……それと同時に、「嗚呼やっぱり」と得心する。

「ねえ、ゆき」
「……」
「ゆき、聞いてよ」

縋るような手の力。痛いけど、痺れるけど、でも、そんなことより、もっとずっと。

「あのさあ、ゆき。私……私、さ」

君に伝えたい、言葉がある。
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