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傷は癒えども
特別に、何があった、という程のことではなかった。ただ、偶然家を訪ねた時、名前が珍しく頬に絆創膏など貼っていたものだから、それが酷く印象に残った。

「顔をどうした?」

幾ら肌色に似せているとはいえ、頬に大きく貼り付けられたそれは目立つ。ついついそこを凝視して尋ねた斬島に、名前は決まり悪そうに苦笑を浮かべて答えた。

「体育の授業でちょっとドジっちゃいまして……大したことではないんですけどね」

保健室にも行ったから大丈夫ですよ。名前がそう言ったので、斬島は「そうか」と言う以上に何か言葉をかけることはなかった。確かに一見大した怪我ではなさそうだし、日常生活に不便を強いられる場所の傷ではない。次にこの部屋に来るときには直っているのだろうと、斬島は何となく思っていた。しかし、

「治っていないのか」

次に名前を訪ねたのは、それから3日後。絆創膏は小さいものに変わっていたものの、相変わらず頬に貼られていた。名前は「もう治りかけですよ」と笑ったので、斬島もそれでまた納得した。

「……傷があるな」

そして更に2日後。絆創膏は名前の頬から消えていた。しかし、乾いた瘡蓋がしっかりとまだ頬に痛々しい痕を残していた。顔を顰める斬島に、名前は「治ったも同然ですよ、こんなの」と苦笑いを浮かべていた。

「……」

獄卒と違い、人間の身体が脆弱であるということは、勿論知っている。ちょっとした怪我ならその日のうちにどころか、1時間もしないうちに全快する獄卒と違い、人間は小さな切り傷や火傷でも数日から数週間は治療にかかる。千切れた手足は生えてこないし、場合によっては痕が一生残ることもある。
知っていた。勿論知っていた。寧ろ当然だと思っていたし、「人間は不便だな」と他人事のように考えたことも一度や二度では無い。しかし、こうして身近な存在が傷を負い、その治療に此処まで時間を要する様を見せつけられるというのは……。

「もどかしい、な」

思わず唇から零した呟きは掠れるほど小さくて、幸か不幸かお茶のお代わりを煎れに立っていた名前には届かなかったらしい。「はい?」と不思議そうに振り返った彼女に「何でも無い」と返した斬島は、しかしほんの僅かだけ眉根を寄せる。
やがてお盆に2人分のお茶を煎れて戻ってきた名前の頬には、もう傷痕など何処にもない。きちんと手当てをしたお陰で、傷があったということも分からない。けれど数日前まで、確かにそこには傷があった。小さなものではあったけれど、消えるまで何日も居座っていた擦過傷が。

「何だか最近、いらっしゃる度に難しい顔をされてますねえ」

くすくす笑いながら湯呑みを差し出してくる名前に、何と答えたのかを斬島は覚えていない。ただ、心の奥底がざわつくような、そんな落ち着きの無さを誤魔化すことに終始必死だったことだけは記憶している。
そして、それから更に数日後。

「名前が?」
「うん。クリスマスケーキを作りたいんだって」

何かの話の流れで、親友が名前にケーキ作りとやらを教えることになった、と聞いたのがつい今し方。もし1ヶ月前に聞いていれば「そうなのか」程度で終わっていたに違いない話題だったが、今は事情が、というか心境が少々異なる。
菓子作りとやらには明るくないが、要は料理或いは調理である。刃物も使えば火も使う。油が跳ねて火傷することもあるし、包丁で指を切ることもある。重たい調理器具が足の上に落ちることも考えられた。
数日前と同じに、心がさざめいてくる。据わりの悪い気持ちに、斬島は顔を歪めた。

「佐疫」
「うん?」

矢も楯も堪らない心持ちのまま、気づけば親友にその日の同席許可を求めていた。目を丸くしたものの、深く追求しなかった佐疫は快く頷いてくれて、斬島はそこでやっと人心地(鬼だけれども)ついたのだった。

 ◆◇

「斬島さんもご一緒ですか?」

そして飛ぶように月日は流れ(そもそもそんなに日が空いていないが)、当日。材料とエプロンを持って館にやってきた名前は、佐疫と一緒にいた斬島に軽く瞠目した。

「斬島も一緒にやりたいんだって」

軽く笑いながら佐疫が言えば、名前もまたそれ以上追求はしなかった。「賑やかですねえ」と寧ろ喜ばしげな反応をして、いそいそと手を洗いエプロンをつける。

「そうなんですか。じゃあお二方、今日は1日よろしくお願いします」
「うん。こちらこそよろしくね」
「よろしく頼む」

館の厨房は広い。3人が動き回っても不便を感じないスペースはなかなかのものだ。恐らく食材や調理器具の場所を一番心得ている佐疫が、手際よく指示を出したり自分で動いたりして必要なものを引っ張り出していく。

「オペラケーキがいいんだよね?」
「はい。是非」

オペラケーキ。言わずもがなチョコレートの層を作る上級者向けのケーキである。詳細は省くが、此処で重要なのは使うのがチョコレートであるということ。つまり塊で売っているチョコレートを溶かす作業が必要になるわけだ。
アーモンド生地を作るまでは(オーブンを使うところを除いて)特に危険などなかったものの、いざチョコレートを溶かす段階になると……言うならば『お察しください』的な展開が待ち受けていた。

「斬島、湯煎するんだから電子レンジにチョコ入れちゃ駄目だよ」

菓子作り用のブラックチョコレートの塊を名前の手から取り上げ、レンジに入れようとした斬島を佐疫が止める。きょとん、と目を丸くした斬島は、やはり菓子作りには明るくないらしい。

「お湯を用意して、その温度でちょっとずつ溶かすんですよ」
「……熱湯か?」
「いえ、ぬるま湯くらいで」

焦げちゃいますから、と首を横に振る名前。そうかと納得した斬島は、また名前の手からボウルを取り、沸かしたお湯と水を混ぜてぬるま湯を作り始めた。

「これをどうするんだ?」
「小さめのボウルをこの上に載せて、刻んだチョコレートを入れて溶かすんだよ。じゃあ溶かすのは斬島にやって貰うとして、名前はチョコをきざ」
「待て佐疫。刻む方を俺がやる。名前はこっちを頼む」
「え? あ、はい」

否応なしに今度はボウルを名前に寄越してくる斬島。いつにない、というかかつて見たことのないような強制力である。名前は勿論、親友の普段ならない姿に佐疫ですら困惑しているようだ。しかしそこは長い付き合い。彼の方が当然気を取り直すのは早かったので、

「斬島待って。チョコ刻むのにカナキリは駄目。ていうか何処から出したのそれ」

流れるような動作で(さも当たり前のように)愛刀を取り出した斬島を、その刃がチョコレートに触れるより先に止めることに成功した。
ちなみに「(カナキリを)置いてきなさい」とぴしゃりと親友に叱られた斬島が、捨てられた子犬のようにしゅんとしていたのは此処だけの話である。

「次はガナッシュかな」
「がなっしゅ?」
「生クリームとチョコレートを混ぜたやつです。口溶けがすごくいいんですよ」
「……また湯煎が要るのか」
「そうだね。あとは生クリームも沸騰するくらいに……大丈夫かい斬島、さっきから亡者に厄介な呪いかけられたみたいな顔してるけど」
「苦いお薬を青汁で飲んだみたいなお顔ですねえ」

要するに『渋面』を浮かべているわけだが、斬島の心境など知らない名前は首を傾げるしかない。しかし佐疫の方は何か感づいたのか、ぱっと表情を切り替えて「斬島」と手を叩いた。

「ガナッシュは斬島にお願いするよ。で、名前はこのチョコレートをアーモンド生地に塗っていってくれる? なるべく均一になるようにね」
「あ、はい。分かりました」
「刷毛はこれ使って。で、斬島はちょっとこっちきて」

厨房の奥の方に、小首を傾げた斬島を伴って移動する佐疫。その様子を名前は不思議そうに見ていたものの、取り敢えず言われた作業をしようと刷毛にチョコレートを染み込ませる。その視線がアーモンド生地に真っ直ぐ注がれるのを確認した佐疫は、真顔の親友に小さく嘆息した。

「あのね、斬島。何があったのか知らないし敢えて聞こうとは思わないけど、ちょっと過保護だと思うよ」
「……気づいていたのか」
「寧ろ気づかれないと思っていたことに驚いたよ、俺は」

ぱちくりと青い瞳を瞬かせる斬島は、間違いなく本気で驚いている。佐疫は笑うべきか叱るべきか少々迷い……結果笑おうとして失敗したような微妙な表情を見せるに留まった。

「そもそも名前は料理出来る方だし、調理器具の扱いは慣れてるからそんなに心配しなくても大丈夫じゃないかな」
「それは分かっているんだが……」

斬島はそこで口を噤んだ。先ほどと大して変わらない渋面を浮かべていることが、鏡などなくても自覚できる。佐疫はひょい、と肩を竦めた。

「あんまり何でもやろうとしたら可哀想だよ。今日のことは名前が希望したんだし」
「……そうだな」

それも分かっている。名前は菓子作りを『習いに来た』のだし、本人が気をつけていれば余程のことが無い限り大きな怪我など出る筈も無い。獄卒でも人間でも妖でも、それは同じだ。
だがそれでも、もしかしたら、という思いがどうしても燻る。決して激しいものではないが、ちりちりと小さな火で炙ってくるような、もどかしいような気持ちが逸るのだ。

「心配なんだ?」
「……ああ」

今更だと分かっているが、それでも気になって仕方ない。むず痒い気持ちを誤魔化すように服の上から胸元を掻き毟る斬島を、佐疫はふと眩しいものを見るように見つめた。あまり見ない表情に、おや、と斬島は首を傾げる。

「佐疫?」

どうした、と問うより先に我に返った佐疫が、「ごめん」と苦く笑う。

「今の斬島、何だか人間みたいだなって思ってね」

空色の瞳をうっすらと細める佐疫に、斬島は言葉を返せない。その奇妙な無言は、チョコレートを塗りおえた名前がふたりに声をかけるまで、厨房の一画を支配し続けていた。

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