Thanks 100000HIT! | ナノ

慈愛の獣
世に生まれ出でてより永きの間、彼女はずっと『孤高』でこそあれ、『孤独』ではありえなかった。
彼女と同じ生き物は、この世にふたつと存在しない。それは彼女が生まれる前よりそうと決まっていたことであり、彼女が生まれた時、生まれた後も覆ることの無い世の真理だからである。彼女はつがいも持たず、同じ群れの仲間も持たず、生まれたときよりたったのひとり、澄んだ水を呑み、柔らかな霞を食んで生きてきた。
けれど、彼女は孤独ではなかった。何故なら彼女にとって、生きとし生きるすべてのものが同胞(はらから)であり、家族であり、また友であったからだ。彼女の身体と比ぶれば吐息一つで飛んでしまう小虫も、彼女の蹄ですっかり隠せてしまうほど小さな兎も、或いは山羊や馬を喰らう狼や獅子であっても、それは変わらなかった。皆が皆、彼女にとっては愛しい命であり、慈しむべき子供達だった。
彼女は生まれながらにして優しかった。優しく穏やかであり、殺生と暴力を憎んだ。そしてそれと反比例するように、賢明に生きようとする命と、命を守ろうとする心を愛した。その優しさがあればこそ、彼女は千年にも勝る月日を、孤独に喘ぐことなく生きて来られたのである――が、しかし。

――……はて。

この世に生まれ出でて千年と少し。時には山に、時には森に。そして時には人里に降りて暮らしていた彼女は、当然『人間』という生き物を知っていた。そして、その生き物が大層進化の早いものであることも、当然心得ていた。
だがしかし、彼女が最後に見た人間と、今目の前にいる人間は――有り体で陳腐な言葉で表現するならば、あまりにも違い過ぎた。

「コラさん、こいつ」
「ん? どうした?」

格好が違う。大きさが違う。髪の色も違う。彼女が人間を最後に見たのは、つい100年ほど前だ。幾ら人間の進化が早いとはいえ、これはあまりにも違っている。自分がうたた寝しているうちに、一体人間達に何が起こったのだろう。

――まあ、いいか。

しかし、千年もの間生き続けていた彼女が、そのことで悩む時間は短かった。あまりにも永い時間を生きてきたお陰で、時間の流れにも自分の命にもいまいち無関心になっているとも言える。彼女は決して不死ではないが、長寿であり不老であった。
故に、物珍しげに自分を見下ろしてくる大人と子供の二人組のことも、自分に乱暴をする気配がないと見るや、取り敢えず放っておくことにしたのである。獣や鳥や魚だけでなく、彼女は当然人間も好きであった。――時折、その生き急ぎ方や狂気染みた乱暴さに、辟易することはあったけれど。

「馬? いや……牛?」
「顔はどっちにも似てねえなあ……新種か?」
「この毛、染めてんのかな」
「蹄は馬っぽいなあ」

首を傾げる大人と子供は、どうやら自分を知らないらしい。不思議なものだと彼女は首を傾げた。これでも人の世では、縁起の良い生き物として随分文献も出回っていると認知していたのだが……人の世は、この100年の間にどうしてしまったのだろう。

「……まあいいか。なあお前。腹減ってないか? 肉焼いたら食うか? あ、それとも草とか食うのか?」

無愛想な子供の方と異なり、大人の方は酷く愛想が良かった。優しい手つきで彼女の毛並みを撫でながら、にかりと邪気の無い笑みを見せる。慈愛に満ちたそれは、彼女にとってとても好ましいものだった。その申し出は彼女にとって不要なものであったが、この人間達を取り巻く空気はなかなか宜しい。彼女は野宿の準備をし始めた彼らを横目に、ゆっくりと膝を折ってくつろぐ体勢に入った。

「妙に人懐っこいな……野生じゃないのか?」

子供が首を傾げた。彼女は特に答えない。子供の手がぎこちなく、彼女の額に触れた。そこには普段、彼女が身体の内側に隠している角がある。隠しているため尖ってもいないし触れたところで痛くもない筈だが、ちょっとした出っ張りを感じたのだろう子供が顔を顰めた。

「コブか、これ。……お前もコラさんみてーに転んだのか?」

こらさん、とやらは、あの大人のことだろう。子供のむっとした表情の、しかしその向こう側に気遣うような気配を感じて、彼女は知らず眦を和ませる。大人もそうだが、子供も優しい心根を持っているようだ。
生きとし生けるすべてを愛する彼女は、当然人間を好いている。その中でも一等好きなのは、誰かを慈しんでいる人間だ。だから彼女は、すっかりこの目の前に居る子供と大人を好きになってしまった。

「……うっ」
「ロー? 大丈夫か!?」

しかし見たところ、大人はさておき子供は何やら調子が思わしくないらしい。青い顔をしてよろめいた子供を、大人が慌てて支える。ぐったりと座り込んだ子供の身体を温めるように、彼女はよいしょと子供の側に寝転び治した。

「何だ、お前もローが心配なのか?」

大人がまた、にかりと笑う。彼女は鳴き声にもせず、そうだよ、と目で答えた。伝わったかどうかは分からないが、大人は嬉しそうに、けれど辛そうに笑っていた。

 ◆◇

大人はコラソン、子供はロー。ふたりの歩くその少し後を追いかけながら、彼女は覚えた名前を反復した。不思議な響きの名前だった。少なくとも、最後に彼女が見知った人間達の名前とは、響きも音の並びも全て異なっていた。

「すまんが、此処はペット可か?」
「ええ、大丈夫ですよ」

ずっと野宿をしていた彼らは、今日は珍しく屋根のある場所で寝ることにしたらしい。ご丁寧に彼女も同じ寝床に入れてくれるつもりのようで、彼女は俄然喜んで大人の足に頭をこすりつけた。

「人懐っこいんですねえ」

見慣れない生き物に奇妙な顔をしたのは一瞬。中年の女のお愛想に、大人が自慢げに笑う。子供が小さく溜息を吐いていたが、そちらにも頭をやれば途端に苦く笑って見せた。そうそう、子供は素直が一番である。

「よしロー、行くぞ」

女から鍵を受け取った大人が、薄汚れた布を目深に被った子供の肩を抱いて歩き出す。彼女も静かにそれに従った。彼女は彼らふたりの事情をよく知らないが、基本的に彼らが野宿をしていたことと、そして子供の肌に奇妙な白斑があったこと、そしてそれが日に日に少しずつ濃くなっていることから、何やら切羽詰まった事態にあることが分かった。
時々彼らは、彼女の分からない言葉を沢山使って会話をするので、彼女に彼らの問題は今ひとつ掴めていない。けれど、彼女は既に彼らがとても好きだったし、何か必要な助けてやるつもりだった。彼女には、それで十分だった。できる限り守ってやろうとすぐに決めてしまえるほど、彼女は彼らの慈愛や絆が愛しかったのだ。

「うわっ……!」
「邪魔だ、糞ガキ!」

ふらふらと覚束ない足取りで歩いていた子供に、赤ら顔のヨッパライがぶつかった。小柄な子供はあっという間に尻餅をつく。そしてその弾みに、子供の顔を隠していた布がはらりと取れてしまった。

「そ、その顔……!」

白い斑模様に覆われた、青ざめた子供の顔が露わになる。明らかに健康ではないその様に嫌な顔をした者達がいたなかで、何やら学のありそうな男が悲鳴を上げた。

「そ、その子供を捕まえろ! 珀鉛病患者だ!!」

はくえんびょうかんじゃ。その単語を認識するなり、周囲に走った動揺。しかし彼らが我に返るより先に、大人が子供を抱え込んだ。

「畜生!」

悪態を吐いた大人が、折角見つけた宿を飛び出す。彼女もすぐにそれを追う。人間のものより性能の良い彼女の耳は、蜂の巣を突いたような騒ぎとなった宿の喧噪を正確に聞き取っていた。

「珀鉛病の子供がうちに!」
「おい誰か通報を!」
「馬鹿家に入れ! うつっちまうぞ!!」
「なんで珀鉛病患者がこの町に!?」

それこそまるで病のように、騒ぎは家から家へ、道を通って街に広がっていく。大人は子供を背負い、大股で走って逃げ果せようとしていた。

「いたぞ!! こっちだ!!」

真っ白でいかめしい布と、黒い面で全身を覆った者達が追いかけてくる。大人はひたすら走り、時に前に先回りしていた追っ手を殴り飛ばして逃げた。暴力を嫌う彼女は飛び散る血とその臭いに顔を顰めたものの、物事には優先順位というものがある。大人の暴挙に目を覆うことにした彼女は、いつの間にか少し空いてしまった大人との距離を急いで詰めた。
ところで、全く本気でないとはいえ、彼女の脚でも追いつけない脚力とは、あの大人もなかなか凄い。

「ちっ……くしょう、次から次へと……!」

あっちに逃げれば反対側から、こっちへ逃げれば上から下から、三つある分かれ道の全てに先回りされた大人が憎々しげに舌打ちする。背後からは同じ格好の追っ手が更に迫っていた。彼女は音もなく蹄を打ち、大人と子供を庇うように前へと出る。

「お、おいお前、馬鹿、前出るな! あぶねえぞ!」

危ない? 失敬な。彼女はふんと鼻を鳴らした。そして今まで一切の音をさせなかった蹄を、かつん、と地面で打ち鳴らす。すると、

「え」

せいぜい中型の犬程度の大きさでしかなかった彼女の身体は、たちまち普通の馬の倍よりふたまわりは大きな巨体へと姿を変えた。馬に似た身体と牛のような尻尾。そのどちらとも違う面長の顔。長い脚。5色の毛を持つその優美な姿を惜しみなくさらし、彼女はちらりと大人へと視線を向けた。

「……乗れってことか?」

恐る恐る、といった風情で尋ねる大人に、一度だけ頭をこすりつける。大人は少し躊躇ったようだが、見慣れぬ生き物に戸惑っていた追っ手達の中から「良いから捕まえろ!」という声が上がったことで我に返る。

「ありがとよ!」

大人は身軽に彼女へと飛び乗った。しっかりとその首に大人の腕が回ったのを確認し、彼女はもう一度、蹄を打つ。そして、彼らを捕まえようと一斉に走り出した彼らの頭を、軽い助走を付けて跳び越えた。……否、『飛び』越えた。

「うおお!?」

大人が変な悲鳴を上げた。それが何だかおかしくて、彼女は声も無く笑う。

「嘘だろ……」

子供が呆然とした声で呟いた。まるで夢でも見ているかのような声音だった。

――飛べるんだよ。私は。だって、走るしか出来ないようでは、草花を踏んでしまうから。

彼女は、何よりもその優しい気性で知られている。生き物を愛し、生きているものであれば虫や草の1本ですら踏むことを嫌がる。鳴き声は音階に一致し、歩いた跡は正確な円になり、曲がる時は直角に曲がる。
『麒麟』。彼女が知っている人間は、彼女をそう呼んでいる。

prev next
bkm
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -