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傷痕疼いて
しとしとと降る雨。悪意と憎悪の視線。お前こそがこの世の悪だと言わんばかりに、天候も人間も自分を自分を責め立てる。害そうとする。
土と水の匂いだけだったそこに、鉄臭さが満ちた。錆び水のような、不快な臭い。それは自分のすぐ側から臭ったけれど、自分の視界にその臭いの『元』は殆ど映らなかった。
視界を塞ぐのは、見慣れた着物の柄と、やはり慣れた温もり。優しさに満ちた腕の中。けれどそこにかかる力の強さだけが、あまりにも常と違う。渾身の力を込めて、抱きしめられている。まるで、これが最後だと言わんばかりに。

『大丈夫かい?』

見上げたそこにあったのは、笑顔だった。それも知っているものだったけれど、血の気の引いた肌色と、何処か引き攣った、無理をするようなそれがやはり常とは違う。青ざめた顔、震える唇。尋ねられた問いに答えは返せなかった。

『おかあ……』

お逃げ、と母は言った。今すぐ此処から逃げろと突き飛ばすように胸を押されて、けれどお世辞にも立派とは言えない子供の体躯は僅かに後ずさっただけ。
ぐったりと膝建ちになって項垂れた母の頭を、鈍く輝く鍬が襲う。それはあまりにも容赦なく母の頭、豊かな髪に守られた側頭部に食い込む。鉄臭さがまた溢れて、鼻を酷く刺激した。草いきれの中に、また血の臭いが満ちる。
違ったのは、まるで子供が水をはしゃいで撒き散らしたみたいに、真っ赤な血液が溢れ出る様を目の当たりにしたこと。

――お逃げ、と母は言った。

けれど幼い自分に、そんなことが出来るわけもなく。
別の方向から振りかぶられた農具に、怯えどころか総毛立つ暇もなかった。

「……っっは!」

これ以上無いほど見開いた目で、見上げる天井。それは彼がまだ『生きていた』頃に何度も見ていた、粗末な梁などではない。夜であっても不便の無い照明のぶら下がった、きちんと壁紙まで貼られている洋館の天井だった。もう既に幾度となく、数えるのも馬鹿らしく、何度も何度も目覚める度に目にしたもの。
心なしか気怠い身体を叱咤して、利き手を持ち上げる。箸も掴めば刀も握る右手は、節くれ立っていて竹刀ダコがすっかり硬くなっている。農具を持つのが関の山だった、やせっぽちの子供の手ではない。戦い方と殺し方を知っている、鬼の手――それをはっきりと確認して、獄卒・斬島はそっと嘆息した。

「今、は……」

時計の文字盤を探すより、窓の外のほの暗さが目に入った。完全な夜の、深い藍色の空ではない。日の出はまだといえど、ほんのりと東の空が紫に染まる刻限。暁降ち。

「……」

まだまだきちんと働かない頭で、それでも今日は非番だったことを思い出してほっとした。仕事に乗り気でないなどと言うつもりは無いけれど、それでも今の精神状態が少し可笑しいことくらいは自覚している。同僚や敬愛する上司に迷惑をかける可能性がある以上、今日が非番であることは有り難かった。
もう一度寝直す気分には到底なれず、起き出した。着替えて外に出て、日課である自主鍛錬メニューをこなす。普段はこんな時間にはやらないので、何だか新鮮な気持ちだ。
けれどその新鮮さも、まるで澱のように心に残った陰鬱さには勝てない。真剣に打ち込んでいるつもりなのに、何処か身が入らないのだ。素振りの時などそれが特に顕著で、普段なら思った通りの太刀筋を描く木刀が、傍目には分からない程、けれど確実にその軌道を歪ませた。

「……駄目だな」

決めた数だけ鍛錬をこなしてみても、靄が晴れる気配はない。日の出は既に終わっていて、そろそろ普段の鍛錬時間がやってくる。斬島はゆるりと頭を振った。
『あの夢』を見たからといって、いつもこんな風になるわけではない。けれどたまに、どうしてか、遠い過去の残滓に過ぎないそれが、こうして心に留まることがある。そうすると、普段は冴え冴えとしている精神が揺らぎ、刀を握る手に迷いとも言えぬ僅かな歪みが生まれる。胸の奥が重くなり、黒い何かが僅かに、けれど確実に腹に居座って蜷局を撒くのだ。

「……」

駄目だ、と斬島はもう一度呟いた。そして呟くが早いかすぐさま自室へ戻り、着替えを手にシャワーを浴びに行く。かいた汗を流水で流すが、それでもやはり淀みは消えない。着替える手には迷いがないが、鏡越しに見る自分は何処か虚ろだった。
立て襟の洋シャツに袷と袴、二本歯の下駄と、所謂書生のような非番スタイルに着替え、向かったのは食堂である。朝食の時間まではまだ随分あるので、厨房に何も無いのは分かっている。小腹が空いている気はするが、何かを食べようと思ったわけではない。まだ誰もいない食堂から厨房へと身体を滑り込ませた斬島は、あらかじめ用意していた書き置きを、分かりやすいよう流し台の横に貼り付けた。

『朝から外出します。俺の分の朝食は不要です。 斬島』

生真面目さの滲み出る、やや角張った良筆。流しに落ちないようきちんとテープで貼り付けたそれを一撫でして、斬島は下駄を鳴らしながら玄関へと向かった。

 ◆◇

珍しいこともあるものだ。というのが、名前の嘘偽りない感想だった。
斬島という鬼と親交を持ち、所謂『恋仲』と呼ばれる間柄になってそれなりになる。名前の知る彼は精神がとても安定していて、ちょっとやそっとでは動揺もしないし、我を忘れるようなこともない。少なくとも今のように、何処か迷い子のような不安を滲ませた様子は、これまでついぞお目にかかったことがなかった。

「どうぞ」

時刻はまだ午前6時過ぎ。親しい間柄であっても、本来ならアポイント無しでは訪れにくい時間帯である。今日が土曜日であることも手伝って、少しだけ開けた窓からは喧噪など全く伝わってこない。
名前はトレーに載せたティーカップをひとつ、斬島の前に置いた。そして自分は彼の向かいに座り、自分の分の紅茶に口を付けた。本当なら客人が飲むまで自分が手を付けるのは御法度であるが、斬島を始めとした獄卒達は、もう名前の中では半ば身内と化してしまっている。高次元世界の鬼に対して不遜なことかも知れないが、彼らがその扱いを許容どころかノリノリで甘受してくれているので、名前もすっかり甘えてしまっている状態だった。

「すまない、こんな早くに」
「いえいえ。元々この時間にはとっくに起きてますから」

だから気にしないでくれと首を横に振ると、斬島の目尻がほんの僅かに和んだ。微笑み、と称するには微少な変化であるが、無表情ではない。名前はそっと安堵の息を吐いた。
その青い双眸の、不安定な揺らぎは消えていない。決して万全な精神状態ではないようだが、それでも折れそうなほどではないらしい。
それだけ確認出来れば、無理に言葉を促すことはしない。名前は口を噤み、彼が来るまで手にかけていた刺繍を続けることにした。

「夢を見た」

どれだけ沈黙が続いたのかは、分からない。けれど暫しの静寂を打ち破り、最初に口を開いたのは斬島だった。名前はゆるりと顔を上げ、「夢ですか」と小首を傾げた。

「昔の夢だった。俺がまだ、獄卒になる前の」

半ば独り言に近い語り方だった。瑠璃色の瞳は何処か遠くを見つめている。無表情なのは普段とあまり変わりないが、ただその目つきのありようがいつもと大きく異なる。それは、名前があまり知らない斬島の顔だった。

「それはきっと、私からすれば随分と昔なんでしょうねえ」

名前は斬島の過去を聞いたことがない。斬島が語ったこともない。理由は細かくすれば色々とある。だが一番は、名前にとって斬島は何処までも『獄卒の斬島』で、それ以前に何処で何をする何者であったのかなど、あまり気にしたことがなかったためだろう。
ただ、ひとつ聞かずとも想像出来ることがあるなら。

「斬島さんって、元は人だったんじゃないですか?」

試しに尋ねてみると、斬島は少しだけ現に戻ってきた。美しい瞳をまあるく見開き、そして小さく頷く。ああやっぱり、と名前は小さく頬笑んだ。鬼という割に、地獄という世界に属する割に、何処までも獄卒らしくありながら、彼は時々あまりにも人間のようだから。

「貧しい村の、貧しい家の子だった。父もきょうだいもなく、母だけがいた」
「……」
「俺のこの眼は、そのときから『こう』だった。……生まれたときから、この色だった」

名前ははっと息を呑んだ。斬島の手が、そうっと自らの目の縁をなぞる。憎々しげではない。忌々しげでもない。けれど決して、労りや愛着の無い手つき。

「それは」

さぞ、この国では生きにくかっただろう。そんな同情に塗れた言葉を、名前はぐっと呑み込んだ。名前にとってはただ美しい、宝石のように魅力的な双眸。けれど当時の日の本にあっては、それは迫害の対象でしかなかったのだろう。

「肋角さんに拾って頂いて」

斬島は滔々と語りを続ける。淡々としてもいた。けれどその静かな声にこそ、激情にも似た哀哭が、確かに宿っている。

「今、俺は何不自由なく生きている……死んだのに、生きているというのもおかしな話だが。肋角さんと災藤さんは尊敬すべき上司で、父のようだ。同僚は友であり、きょうだいでもある。多分俺も、皆からは同じように想われていると、思う。幸せな、ことだ」
「……」
「それでも、どうしても、思い出すことがある。思い出すと、時々だが、堪らなくなる」

何故、と。

「何故、俺なんかが」

斬島を大切にしてくれる者達がいると知っていながら、彼らに対する侮辱と分かっていながら、それでも考えてしまうのだと。

「俺が、俺さえ……いなければ」

斬島の語るこれは、過去だ。過ぎ去った昔だ。取り返すことも出来ず、その時代も彼自身も知らぬ名前に、慰めの言葉などかけられる筈も無い。斬島も、そんなものは望んでいない。それが分かるから、尚更言葉など紡げないし、紡ぐ必要性もない。

「斬島さん」

名前はやおら立ち上がると、そのまま斬島の隣に腰掛けた。2人用のソファは、決して大柄ではないふたりが座っても手狭にはならない。突然距離を詰めた名前に驚く斬島だったが、名前は気にせず斬島の頭を抱き寄せた。

「名前?」

戸惑ったように名を呼ばれたのが、少し可笑しい。微かに笑いながら、名前は広い背中をぽんぽんと叩いた。子供をあやすみたいで少し申し訳ないが、そこは許容して欲しい。
特に理由がなくても、気分が落ち込むことなど人間にだってある。たとい既に克服した過去であっても、思い出せば鬱々しい気持ちになるのは当然だ。そこに憐憫や同情は不要。必要なのはきっと、少しばかりの心の休息だ。

「斬島さん、お疲れなんですよ。非番だそうですし、少しゆっくりしてください」

少し休んで貰って、美味しいものを食べて貰おう。その後は気分転換に外を歩いてもいい。
そんな他愛ないことを考えながら、見えない古傷を労るように、名前はもう一度ぽん、と斬島の背を叩いたのだった。

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