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ひ弱な鬼とお医者様
こほん、と乾いた咳がひとつ零れた。しかしひとつ零れてしまえば、こほんこほんと次々に同じような咳が出てきて、ついにはげほげほと聞き苦しい音が重なっていく。呼吸もままならなくなって、胸が痛む。感情の伴わない涙が溢れて、視界が滲んだ。
現世は年度初めである。この時期は地獄も忙しい……勿論地獄に忙しくない時間などないのだが、とりわけ忙しい。獄卒ともなればそれは折り紙付きで、だから今この館には、親代わりである肋角や災藤は勿論、兄貴分である他の獄卒達もいない。家政婦達はまだ残っているかも知れないが、昼はとうに過ぎているのでそろそろ帰っていてもおかしくはないだろう。

「はっ、はっ、はっ……はっ」

ようやく咳が収まったのを見計らって、徐々に呼吸を整えていく。額に浮かんだ脂汗が鬱陶しい。その汗を拭ったり、背中をさすってくれたりする人は今誰もいない。基本的に家族は彼女がひとりにならないよう気を遣ってくれているのだが、この時期の忙しさの前ではあまりそんなことは言っていられない。毎年のことだし、彼らが申し訳なく思ってくれているのも知っている以上、彼らを責める気は皆無だった。

「ふう……」

軋む心臓。火照る身体。重たい頭と手足。ままならない肉の塊を何とか操って、枕元に鎮座させていた白い塊に手を伸ばす。白くて大きな、犬のぬいぐるみ。顔見知りである不喜処の獣獄卒によく似た、種類のよく分からない太った犬をかたどったそれ。細い彼女の両腕では、抱きつくのもやっとの大きさだ。

「……」

買い物が趣味の災藤にこっそり買ってきて貰った、誰にも内緒のお気に入り。白くてふかふかで、太ってて可愛い。彼と同じ『シロ君』という名前をこっそりつけたぬいぐるみは、こんな風に体調の特段悪い中で、ひとりで過ごさなければならないときの大いなる慰めだった。

――コンコン。

「ぁ……」

浮かんだ涙を吸わせ、ふかふかのそれに顔を埋めていた彼女は、不意に聞こえてきたノックの音にはっと我に返る。

「ニーハオ、名前ちゃんいるー?」

扉越しに聞こえてきたのは、肋角や災藤は勿論、他のきょうだい達とも違う気楽な雰囲気の声だった。特別普段から聞いているわけではないが、聞き覚えも馴染みもある。無意識に強張らせていた身体から力を抜いた名前は、ぬいぐるみをベッドの下に隠してから「どうぞ」と返事をした。

「失礼しまーす」

きちんと名前の返事を待ってから扉を開けたのは、まだ若い(ように見える)男だった。黒い髪につり目がちだが笑みの形に細められた両目。白い頭巾に割烹着によく似た服を着ていて、学校の給食当番にも似た格好。すん、と鼻を鳴らすまでもなく、色々な生薬の香りが漂ってくるこの男は、にこにこと笑いながら名前のベッドへと近づいて来た。

「ニーハオ名前ちゃん、検診に来たよー」

特別目立つのではないが、流行に押し流されることの無い中性的な美男子。基本的にきちんと身体を鍛えている者達ばかりが周りに居る名前からするとすこし頼りない印象を受けるが、実際荒事や力仕事には向いていないのだという。ついでにいうと、天国でも地獄でも有名な女たらしで、美人は勿論醜女にもフェミニズムを崩さない女好き。
しかし一方で漢方薬学界では随一の権威を持ち、中国では妖怪の長ともされる長寿にして博学の神獣。

「具合は……あんまり良くなさそうだね」

普段から顔色の良くない名前の体調を一目で見抜いた男に、名前はこくりと頷く。肋角とは別の意味で、彼にこういう嘘は通じない。親バカな肋角が、わざわざ天国に出向いて名前の主治医になるよう懇願した程の腕前を持つ彼に、病を隠し立てするような気概は最初から無いのだ。

「よろしくお願いします……白澤先生」

しかし、

「あ、いいねその先生って呼び名。何かイケナイ感じがする」
「肋角さんに言いつけていい?」
「ごめんなさい謝るからそれだけは止めて」

五体倒置せんばかりの勢いで頭を下げた白澤に、威厳も何もあったものではない。が、いつものことなので名前は気に留めないし、白澤の復活も早かった。

「見たところ発熱と……あー、結構咳出てるね。喉より気管支の方かな。ちょっと待ってね」

テキパキと名前の診察、それから薬の処方をしていく白澤。その手際はいつも通り鮮やかだ。この館の獄卒である抹本も薬師としてはそれなり以上の腕前だが、そんな彼も白澤の知識と技術には舌を巻くことが多いという。これはやはり、亀の甲より年の功というヤツなのだろうか。

「ん? 何? そんな見つめられると照れちゃうなあ、僕」
「……何でもない」

失礼なことを考えた自覚があるので、取り敢えず口は噤んでおいた。たとえ家族以外と殆ど交流を持てない身であっても、末っ子という立場から名前はそれなりに空気の読める鬼だった。

「いつものやつと、気管支の通りをよくする薬ね。1日3回、食後にきちんと飲むこと」
「はい」
「名前ちゃんは可愛いし良い子だねえ。あーあ、肋角や災藤が煩くなかったらデートのお誘いしちゃうんだけどな」

あ、あいつ等以外にも煩いヤツは一杯いるか。などと何処まで本気か分からないが、そんなことを独りごちる白澤。持ってきていた大きな鞄に、広げていた漢方や医療器具を片付けていく手つきは相変わらず鮮やかだ。

「……」

人懐っこい、というか距離感の近い言動の割に、白澤はあまりこの館に長居はしない。地獄には彼が特に嫌っている閻魔大王の第一補佐官がいるからか、或いはこの館の主である肋角や災藤が怖いからかも知れない。
だが一番の理由は、名前が白澤が求めるような『遊べる女の子』ではないからだろうと、名前自身は考えている。鬼として拾われてこの方、ろくすっぽ外にも出られない名前だ。親代わり達もきょうだい達も「それでいい」と言ってくれるけれど、余所から見ればさぞおもしろみのない、つまらない存在だろうと思う。

「ねえ、名前ちゃん。今日はこの後何かある?」
「え……」

ぱたんと鞄を閉じた白澤が、いつもの人好きする笑みを浮かべて尋ねた。尋ねられた名前は戸惑いながらも首を横に振る。この後も何も、名前は基本的にいつも暇だ。寝ているか、本を読んでいるか、そのどちらか。
ふるふると幼い仕草で首を振った名前の手を、「じゃあさ」と白澤が握った。

「白澤おにーさんとお部屋デートしない? あ、勿論奴らには内緒でね?」
「……」
「実はさあ、女の子が好きそうな可愛いお菓子あるんだ。練り切りってやつ。名前ちゃん好き?」
「……好き」
「よかった。お茶は中国茶しかないけど結構合うみたいだよ。ね、食べない?」
「食べる」
「よしよし。じゃあ今準備しちゃうねー」

うきうきと、何やら楽しそうに魔法瓶と、両手のひらにすっぽりと収まる小箱を取り出す白澤。もしかしなくても最初から準備していたことは明白で、名前は思わず目を白黒させてしまう。

――そういえば……。

白澤がここに来るのは決して珍しくないのだが、今日はそもそも定期検診の日ではない。具合が悪ければ予約を入れていなくても来てくれるのだが、今日はそもそも具合が悪いなどとは誰にも伝える機会がなかった。ただ昨日、肋角から「明日(今は今日だが)は誰も館にいなくなるから気をつけろ」と言われていただけで……。

「あ……」

もしかしなくても、彼は肋角からの連絡を受けて来てくれたのだろう。此処までしてくれるのは肋角が頼んだからか、それとも彼自身の気遣いなのか、それは分からない。
ただ、どちらもあり得るから、敢えてどちらかはっきりさせようとも思わなかった。

「……ありがと、先生」

消え入りそうな声が、果たして白澤に届いたのかは分からない。彼はへたくそな鼻歌を歌いながらお茶を準備するばかりで、名前の声に答えはしなかったから。

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