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ある意味での鬼の霍乱
見た目によらない、と時折言われることがあるのだが、名前は割り方健康優良児だ(つまり傍目には弱々しく見えるらしい)。夜更かしの常習犯である割に貧血に見舞われたこともあまり無いし、風邪を引きやすいという季節の変わり目に体調を崩すようなこともまず無い。クラスでインフルエンザが大流行したときも、けろりとして学級閉鎖を平穏にやり過ごしたこともある。
が、そうして普段から病原菌に苦しめられる機会が少ないためなのか、いざ体調を崩すとそのときの症状が凄まじい。しかも世間の流行りとは関係無しに突然どかんとやってくることが多く、「何かちょっと具合が悪い?」という予兆らしいものもない。そのため、

――あ、これアカンやつや。

朝起きて、昨夜までは全く感じていなかった気怠さと不自然な発汗、そして頭痛。全身が訴えている『お前今病気だぞ』の危険信号。起き上がった途端にぐらりと視界が歪んだのは気のせいではなく、ただの目眩だろう。

「げほっ……」

咳も出てきた。今気づいたが喉もイガイガする。上体を起こしている今の耐性すら辛い。名前はそれでも寝転ぶのを堪え、ベッドの側に設置したサイドテーブル――その上の電話子機に手を伸ばす。
壁にかけたカレンダーで日付を確認し、今日が日曜日であることにまず安堵する。学校への連絡は不要だ。この体調では、こなすべきタスクが少ないに越したことはない。力の入らない指でどうにか覚えていた番号をプッシュし、耳にあてる。

『もしもし』
「斬島さん……」

ややあって出た声はいつも通りの調子だった。低くて落ちついたそれ。何だか妙に安心して、そっと笑みを浮かべながら仰向けに寝転ぶ。

『名前か。どうした?』
「朝早くから、すみません。今日の、お約束なんですけど……」

いつもよりずっと覇気の無い自分の声に内心呆れつつも、何とか用件だけは告げる。喋っている最中に何度か咳が出るのが煩わしい。せめて水でも飲んでからにすべきだったかと考えても後の祭りだ。
が、常ならぬ様子を電話口の向こうからでも感じ取ったのだろう。斬島は所謂『ドタキャン』をかましている名前を責めることもなく、「そうか、分かった」と答えてくれた。

『……大丈夫か?』

普段の彼らしからぬ、おず、と何処か惑ったような声。名前は思わず笑みを漏らしながら、「大丈夫ですよ」と頷いた。

「多分、そんなに長くかからないと思います……けほっ。ご心配、有り難うございます」
『ああ。……お大事に』
「……有り難うございます」

ぎこちない労りの言葉が酷く嬉しい。ほっこりと心が温かくなったのを感じながら、電話を切る。名前はぐったりと弛緩した身体をなんとか起こし、ふらふらとした足取りでキッチンへと向かった。

――水……じゃない、お茶かな。麦茶、冷たいのが冷蔵庫に……。何か、食べる……のは、後でいいや。薬……風邪薬、無い……。病院……は、ちょっと今、無理……。

冷蔵庫から麦茶の入ったピッチャーを、戸棚からプラスチック製のカップを取り出し、両手に持ってまたふらりふらりとベッドへ戻る。どさりと思いっきり体重をかけて腰掛けると、スプリングがほんの少し軋んだ。
大きめのカップに麦茶をなみなみと注ぎ、一気に煽る。よく冷えた麦茶が、火照った身体にするすると吸収されていく。全て飲み干して、我知らず息を吐いた。

「寝よ……」

今日が休日で本当に良かった。本当は色々やりたいこともあったけれど、こんな状態では何一つ出来まい。兎に角まずは体調を回復させようと、いそいそベッドに潜り込んで布団を被る。
鉛のような身体をベッドのシーツに沈め、ついでに意識も沈めていく。名前はそのままぐったりと、あまり心地の良くない眠りの世界へと落ちていった。

 ◆◇

左手につるした風呂敷が、ずっしりと重い。それは心理的な要因からだけでなく、単純に中に結構な重量の荷物が包まれているからだ。見慣れた黒い扉が、何故だか閻魔庁の正門のような重厚さを持っているように見えるのは何故だろう。今まで幾度も此処を潜っているのに、何故今日に限ってこんな緊張してしまっているのか。
獄卒・斬島は何となく途方に暮れながら、軍服ではなく一昔の書生のような出で立ちで立ち竦んでいた。

「……」

右手に握られているのは、隣に住んでいる少年――言うまでもなく名前の従弟にあたる彼だ――から預かった合い鍵である。こんなものを使わずとも『穴』を部屋の中に空けてしまえば鍵など関係ないのだが、そういう出入りはマナー違反なので、斬島は極力使わないことにしている。

『え、名前姉が風邪?』

あれやこれやと佐疫に手伝って貰って集めた『看病アイテム』を風呂敷に包んで、現世に飛んできたのが15分ほど前。来たは良いもののインターフォンを押して家主を起こすことを躊躇った斬島に、たまたま遊びに出ようとしていた隣人が声をかけてくれたのは実に幸運だった。

『今日は母ちゃんも父ちゃんもいないし、斬島兄ちゃんさえ良かったらお見舞い頼むよ。俺が行くと逆に気を遣わせちゃうから』

お大事にってだけ伝えといて。と、クールな表情と声でそう言った少年は、そのまま家を出て行ってしまった。人によっては「冷たい」と取られるかも知れないが、確かに名前の性格であれば、小学生の従弟を病原菌の温床になっている自分に近づけるのは嫌がるだろう。

「……よし」

幾ら従弟公認の訪問とはいえ、家主に報せず家に入るという行為は少し勇気を伴う。しかしだからといって、いつまでもこんなところでじっとしている訳にはいかない。斬島はやおら背筋を正すと、普段自分が使うようなものとは違うカード型の鍵を、慣れない機械に滑らせた。

「邪魔をするぞ」

ピピ、という僅かな電子音の後に、ガチャリと扉の開く音がする。小さく声をかけたものの、返事は当然無い。それに一抹の寂しさを覚えた自分を軽く叱咤して、扉の隙間から自身を滑り込ませた。

「名前?」

部屋の中は静まりかえっていた。元々名前1人しか住んでおらず、防音も完璧なこの部屋は意図的に音を立てなければ決して騒がしくはならない。名前自身も普段は特別お喋りではないから、訪れたこの部屋は大抵いつも静かだった。
けれどそれは、こんな耳が痛くなるような静寂とは違う。何かもっとあたたかな、気持ちの穏やかになるような静謐だった筈なのに。

「此処か?」

一応ノックをして寝室に入ると、果たして名前はベッドに横たわっていた。気配が希薄なのは眠っているからか、それとも弱っているからか。足音を忍ばせて近づくと、彼女は血色の良い頬を更に赤くして、ふうふうと浅い呼吸を繰り返している。白い額には玉の汗が浮かんでいた。

「名前……?」

存外か細い声が自分の口から零れた。小さな呼びかけに、少女は目覚める気配を見せない。枕元のピッチャーには麦茶が入っているようだが、あまり減った様子はなかった。この様子では喉も随分渇いているだろうに、飲む元気が無いのだろう。

『まずは水分補給だね。食べられるようなら何か食べた方がいいけど、あんまり弱ってるならおかゆも食べられないだろうし、卵酒とか生姜湯とかがあると良いね。あとは……』

出かけ前に佐疫が教えてくれたことを反芻する。水分補給……は本人が辛うじて用意しているようなので、まずは置いておく。本人の目が覚めたら飲ませようと決めて、斬島はキッチンへと向かう。
綺麗に片付いているそこは、今朝から何も料理の類をしていないことが窺われた。つまり、名前は恐らくあの電話の前にも後にも食べ物を口にしていないのだろう。卵酒と生姜湯とどちらが好みか分からなかったので、取り敢えず両方作ることにする。作り方は佐疫がメモに書いてくれたので助かった。佐疫は本当に物知りだと、思わず深く感嘆する。

「卵に、日本酒……生姜。これは、蜂蜜か……」

卵酒も生姜湯も然程難しいメニューではないため、作ることに苦労はしなかった。分量配分が分からず両方とも鍋一杯になってしまったが、まあ多い分には困らないだろう。味見しても問題はなかったし、これで栄養補給は出来る。あとは……、

『あとは――、汗をかいたらきちんと拭くこと、かな』

熱がぶり返しちゃうからね、と続けた親友の言葉を思い出し、斬島は慌てて寝室へととって返した。先ほど少し見た名前は、気のせいでなければ結構な発汗量だった筈だ。

「しまった……!」

持参していた手ぬぐいを水で濡らし、固く絞って寝室へととって返す。名前は相変わらず眠っていたが、その額にはやはりしっとりと汗をかいていた。荒い呼吸を繰り返す彼女の前髪は、その汗でぺたりと顔に張り付いている。
斬島は彼女を起こさないよう、ガラス細工にでも触れるような心持ちで手ぬぐいを肌にあてた。
最初に額。それから頬を綺麗に拭い、顎の下や首筋にも手ぬぐいを滑らせる。そうすると冷たい布が心地よかったのか、苦しげだった少女の表情も僅かに和らいだ気がした。

「熱い……」

試しに綺麗になった額へと右手を載せると、そこは確かに普段からは考えられないような熱を持っていた。手のひらに吸い付くような肌は焼けるほどに熱く、落ちついていた筈の斬島の心をざわつかせた。

「んっ……ぅ」

獄卒の体温は低い。死人のよう、と言うには大仰だが、それでも平均的な人間のそれよりはずっと冷たい。ひんやりとしたそれに意識を引き戻されたのか、眠っていた名前が小さく声を上げた。起こしたか、と俄に身体を強張らせた斬島を余所に、ゆるゆると重たく閉じられた瞼が上がっていく。

「きり、しまさん……?」

ぼうっとした、あまり焦点の定まっていない目。熱で潤んだそれが、ゆらゆらと揺らぎながらも斬島を見ようと瞬いた。

「夢……?」

どうやら自分が起きているという自覚が無いらしく、声音にも表情にも感情があまりのっていない。とはいえ起きたなら水分補給をさせなければと、斬島が側のピッチャーに手を伸ばそうとしたそのとき、

「やだ」

存外俊敏に動いた名前の両手が、斬島の右手をしっかりと掴んでいた。つい1秒前まで、名前の額を陣取っていた彼の手が、すっかり火照った少女の両手に拘束される。

「きりしま、さ……手、つめたい、ですねえ」

熱に浮かされたように(ように、ではなく実際に、だが)、茫洋とした声で名前は笑う。そうして何故だか酷く愛しそうに、動けなくなった斬島の手に頬をすり寄せた。

「名前、はな……」
「きもちいい」

寝言のように一言呟いて、すう、と名前は再び寝入ってしまった。心なしか先ほどよりも穏やかな寝顔をしている。それは良い。それは別に全く問題ではないのだが……。

「麦茶が注げないんだが」

小声で苦言を呈したところで、相手はすっかり夢の中。捕まった右手がどんどん温くなっているのが分かる。これでは気持ちよくも何ともないだろうに。だが存外しっかりと掴まれているおかげで、無理にほどけばまた彼女を起こしてしまうような気もする。起きた方が水分補給も出来て良いのだろうが、折角こんなに気持ちよさそうに眠っているのに起こすのは頂けない。
どうしたものか。普段は滅多に動かさぬ眉を微かにハの字にして、斬島は少し途方に暮れる。そんな彼の心中を知らぬまま、名前はそのままたっぷりと1時間、穏やかな惰眠を貪ったのだった。

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