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あめあめ、ふれふれ
「つめたっ」

どんよりと灰色に浮腫んだ空。そこからざあざあと落ち始めた雨粒。止めどないそれを軽く手で受け止めて、そしてその冷たさにすぐ手を引っ込める。土砂降りと呼ぶには勢いが無いけれど、小雨と言うには少し激しい。そしてちっとも病む気配の無い雨模様に、名前は眉根をきゅっと寄せた。

「天気予報は降らないって言ってたのに……」

などと愚痴ってみたところで、雨が今、降っているという事実は変わらない。そして天気予報を信じた自分が、脳天気にも傘を持たず出てしまったということも。

「え、と……」

とはいえ、いつまでもこんな往来のど真ん中で立ち往生している訳にはいかない。通行の邪魔であるし、何よりも現在進行形で雨晒しなのだ。
獄卒の身体に死は無いけれど、怪我も負うし病にも冒される。こんな状態のままでは、絶対に風邪を引いてしまうだろう。名前という獄卒は、実際獄卒の中では然程身体の丈夫なタチではなかった。

「あ、あそこ」

このまま走って館に帰るには、少し距離がありすぎる。かといって出てきたところは図書館で、この濡れた身体でもう一度入るのは躊躇われる。ならばせめてこれ以上濡れないようにと、既に店仕舞いしたらしい青果店の屋根の下に滑り込んだ。
屋根に当たった雨音が跳ね返る、ばらばらという音がやけに耳を突いて、落ち着かない。それでもこれ以上雨水を身体に受けることはなくなり、名前はようやく人心地ついた気がした。しかし、

「さむい……」

濡れなくなったからと言って、それまで吸い上げてしまった服の水分がすぐに蒸発してくれる筈もない。濡れた衣服はぴとりと肌に纏わり付いて不快だし、何より冷たい。
表皮からじわじわと、そして確実に体温が下がっていくのが分かる。名前はぶるりと身体を震わせた。辛うじて鞄の中で無事だったハンカチで髪や服を拭ってみても、小さな布きれはあっという間に水を吸って使えなくなってしまう。

「ううっ」

嗚呼、何故今日に限って制服を着ていないのだろう。名前は心の中で嘆く。
獄卒の制服は頑丈だ。亡者や怪異との戦闘は勿論、あらゆる環境下でも最適な動きが出来るように設計されている。当然生地も撥水性が高く、多少のことでは破れもほつれもしないのだ。勿論今日それを身に纏っていないのは名前が非番だからで、滅多に無い非番の日にまでごっつい制服を着たくなかったという乙女心が働いた結果である。
しかしこうなってしまうと、こんな天気なのにうっかり買ったばかりのブーツをおろしてしまった自分が憎らしい。ああもう、何故せめてもっと晴れた日に。いやでも、そもそも今日は2ヶ月ぶりの貴重な非番だったわけで。

「運が無い、なあ……」

折角のお休み、折角のお出かけ。それなりに楽しかった筈なのに、終わりがこうだと何故か全体的にダメダメな1日だった気になってしまう。鳥肌の立っている腕をさすってみても、寒さはちっとも緩和しない。雨脚は心なしか強まっているようで、これではいつ帰れるかも分からない。

――電話して、誰かに迎えに……は、駄目だよね。

端末は持っているので、館に電話はかけられる。けれど恐らく今の時間は殆ど皆任務に出ているだろうし、キリカやあやこは今頃もう帰宅しているだろう。肋角や災藤なら館にいるだろうが、彼らにまさかこんな使いっ走りみたいなことは頼めない。
彼らの恐ろしいところは、電話を取れば何も言わずともこの状況を察してさらりと迎えに来てしまいそうなところだ。そんなことになったら本当に申し訳ないし、谷裂辺りが烈火の如く怒るだろう。

――この寒い中突っ切るのは、流石にちょっと……でもこのままじゃあとどれくらい此処に居れば良いのか……。

途方に暮れる、とはまさにこのこと。しっとり濡れて頬に張り付く髪が鬱陶しい。吐く息は白く、気温はますます下がっているようだ。どうしよう。名前がすっかり意気消沈したそのとき、

「あれ、名前?」
「――え?」

天からの助け(此処は地獄だが)とは、まさにこのことか。聞き慣れた声に名を呼ばれて顔を上げると、そこには任務帰りらしい軍服姿の同僚がひとり、いつものように外套を羽織った姿で、大きめの蝙蝠傘を差して立っていた。

「佐疫さん……」
「こんなところで奇遇だね」

にこり、と柔らかに微笑んだ佐疫が、水たまりの深いところを器用に避けながらやってくる。彼は濡れて震える名前を見て、大体の事情を察したらしい。微笑みに少しだけ困ったような、苦いような色を含ませて、それでもその水色の瞳を優しく細めた。

「こっちの道を通って良かった。一緒に帰ろうか」
「お、お願いします……」
「うん。あ、でもその前に少し拭いた方がいいね。ハンカチは持ってる?」
「あ、えと……有るんですけど、もうこの状態で……」

すっかり水を吸ってしまったハンカチを見せる。佐疫は「それはそうだよね」と苦笑し、如才ない動作で自分のハンカチを取り出した。青と白のチェック柄の、シンプルでごくごく普通のハンカチだった。

「じゃあこれどうぞ。俺ので申し訳ないけど、今日はまだ使ってないから」
「そ、そんな。悪いですよ……」
「遠慮しないで。こんなのは使ってなんぼなんだから、ね?」

ね、と一応疑問符は付けているものの、何というか少し逆らいがたい、強い口調。名前はおずおずと四角いそれを受け取り、小さな声で「有り難うございます」と礼を言った。
とはいえ、それでも人のハンカチで遠慮無く自分の身体を拭けるかと言うと、なかなか難しいものだ。遠慮がちに肩や二の腕の水気を取っていると、「こら」といきなりハンカチを奪われた。

「もっとちゃんと拭かないと駄目だよ。じっとしてて」
「え、で、でも……」
「良いから。このままじゃ風邪引いちゃうよ。名前はただでさえそんなに丈夫じゃないんだから」
「うう……」

決して痛みを覚えることの無い、けれど強い手つきで髪や顔を拭われる。勿論それで取り除ける水気はたかが知れていたが、別の要因で幸いにも体温は僅かばかり上昇してくれた。寧ろ血色はうっかり普段より良くなっているかも知れない。名前は現実逃避とばかりにそんな馬鹿らしいことを考えた。

「……こんなところかな。名前、歩ける?」
「は、はい」

大きな傘を傾けてくる佐疫を待たせないよう、意を決して屋根の下から出る。傘の柄を持ち、当たり前のように道路側に立つ彼は本気でただの紳士だ。しかも歩き出すと微妙にその傘をこちらに傾けて、名前が濡れないように気を遣ってくれている。
不謹慎かも知れないが、まるでお嬢様やお姫様の扱いを受けている気分だ。密かに憧れている同僚の横顔をそっと盗み見て、名前は思わず少しうっとりしてしまった。

「ひいっっ」
「名前?」

そんな脳天気な名前を叱咤するかのように、絶妙なタイミングで吹き抜けた北風。まだまだ濡れたままの名前は、容赦の無い冷気に思わず全身を硬直させた。

「濡れたままじゃ寒いよね。気が回らなくてごめん」
「そんな……あの、大丈夫です。帰ったらすぐ着替えますから」
「帰る間に冷え切っちゃうよ。手だってこんなに冷たいし」
「ぁ……っ」

普段は銃を握り、ピアノを弾く多才な手が、名前の一回りも二回りも小さな手を握る。獄卒は押し並べて体温が低いものだが、佐疫のそれは何だか酷く温かく感じた。どきりと心臓が高鳴ったのが分かる。冷え切っていた身体が、何故かかっかと火照りだしてきた。

「名前? どうしたの?」
「っ、い、え……なんでも」

ないです、という回答は、「なくないよね?」と他ならぬ佐疫によって遮られた。今日の彼は本当に常ならぬほど口調が強い。元々決して我の強い方で無い名前は、それ以上反論も出来ず俯いた。
寒いし、恥ずかしいし、少しだけ怖かった。どうしたら良いのか、何と言えば最善なのか分からず、心がまごついて立ち止まる。自然と佐疫の歩みもとまり、互いに押し黙ること数十秒。

「……名前、ちょっと我慢できる?」
「え? ――きゃあっ!?」

握られていた手を引かれ、油断していた身体が引力に従ってつんのめる。しかしそのまま転倒して水たまりにダイブ――とはならず、カーキ色の軍服を纏った、存外広い胸板にしっかりと受け止められた。

「……え? さえき、さ……ちょ、え、佐疫さん!?」

抱きしめられている……というか、包まれている、という方が正しいか。数多の重火器を隠している佐疫の外套の中に、小柄な名前の身体がすっぽりと多い隠されている。
その状況を正確に把握した名前が、今度こそ耳まで真っ赤にして狼狽え始めた。しかし当の佐疫は涼しい顔をして、「暴れちゃ駄目だよ」などと注意してくる。

「悪いけどこのまま帰ろう。これ以上体温下げたら本当に風邪引いちゃうよ」
「で、でもでも、こんなのって……!」
「任務帰りだから多分火薬とか汗とか臭うかも。臭かったらごめんね」
「くっ、くさくはないですけどそういう問題じゃ」
「そう? ならよかった」

にこりと全く悪意の無い、寧ろ善意の塊でしかない笑顔を向けられれば、それ以上の抵抗などもはや出来る筈も無い。何より多少の歩きづらさはあるが、佐疫の外套の中は想像以上に居心地が良かった。
彼の言う通り確かに多少は硝煙の香りがするものの、銃器を使う人間からその匂いがしない方がおかしい。名前は決して、その匂いが嫌いではなかった。寧ろ、

――すき。

この匂いも。銃を使う姿も。彼の指に触れる銃やピアノが羨ましくなるくらいに。
佇む姿が。細やかな気遣いが。優しさが。笑顔が。声が。このひとの全てが。

――だいすき。

「? 何か言った?」
「……いいえ」

ふるりと首を横に振って、顔を見られないようそっと俯く。きっと自分は今、泣いているのか笑っているのかも判別できないような、そんな情けない顔をしているに違いない。
雨は相変わらず降り続き、水たまりが所々に出来た道は歩きにくい。寒さは完全に取り除かれた訳では無いし、まばらながらも行き交う通行人(勿論人間など殆どいないが)が、「最近の若い者は」と言わんばかりの顔でこちらを見てくる。それでも。

――どうしよう。しあわせ。

館への道がもっとずっと長ければ良いのにと、つまらない願いをかけるくらいには。

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