OFFERING | ナノ

埋没する非日常
「あ! ねえ、君!」
「はい?」

地獄の首都、獄都。様々な時代や国別に区画分けされたその一大都市の中央部を気分良く歩いていたなまえは、不意にかけられた知らぬ声に振り返った。
覚えのない声の主は、やはり覚えのない姿をしていた。洒落た灰色のスーツ姿で、ネクタイはしていない。柄物のシャツは少し派手で、胸元にあしらった白い薔薇は、質の良いもののようだが何だか軽薄な印象を植え付けてくる。
見たところ姿形は人間と変わらないが、纏っている香水に混じり、隠しきれない妖気が仄かに漂ってくる。よくよく見れば、爛々と光る目玉の中心、瞳孔は縦に開いていた。

「ああ、やっぱり君だ。ね、君、俺のこと覚えてる?」
「……いえ。失礼ですが、どなたかとお間違えではないでしょうか」

記憶をざっと漁ってみるが、男の顔に覚えは無い。首を傾げるなまえに対し、男は「ええー?」と大袈裟に落ち込んだ素振りを見せる。

「覚えてないとか酷いわー。俺マジ運命感じちゃってたのに」
「? あの……」
「んー、まあでも仕方ないか? まあ確かに一瞬だったしなー。けど正直フェアじゃねえ感じ?」
「は、はあ」
「……ま、いーや。ね、君今時間ある? 喉渇いてない? 珈琲とか好き?」

1人ぶつぶつ独り言を言っていたかと思えば、急に矛先を再びこちらに向けてくる。なまえはきょとりと目を丸くしたが、取り敢えずその首を横に振った。

「これから行くところがあるので」

言い訳でも何でも無く、ただの事実である。今日はこれから、特務室の館で約束事があるのだ。
なまえは手に持っていた紙袋――中には数量限定のちょっとお高いマカロンの詰め合わせが入っている――を、こっそり庇うように後ろ手に回す。しかし、男の目はなまえの荷物など見てはいない。ただただ、ご馳走を前にした獣のように、舌なめずりせんばかりに眼を光らせる。

「えー? 良いジャン、ちょっとくらいさあ。ね、1杯、1杯だけ奢らせてよ。ね?」
「えと……すみません、急いでるので」
「そこのお店がさあ、珈琲すっごい美味いんだよ。女の子が好きそうな感じでさあ」
「あの」
「絶対後悔させないからさ! ね? 良いでしょ? ちょっとだけ。ね?」
「いえ、ですから」
「良いから着いてこいっつってんだろォ!!?」

突然声音と雰囲気を変えた男が、がしりとなまえの右手を掴んでいた。荷物を隠していた左手と違い、自由に遊んでいて無防備だった手首が、酷く強い力で握られる。
吐息がかかるほど近くに寄せられた男の顔は、いつの間にか様変わりしていた。食いしばられた歯は伸びて肉食獣のそれのようになり、目玉も大きく、そして白目が消えて黒目ばかりになった。頭の上の方に2つ生えた三角の耳は、どう見ても人間のそれではない。

「大人しく誘ってりゃつけあがりやがって! 黙ってこっち来やがれってんだよォ!!」
「痛……!」

吹きかけられた呼気は、屍肉を食らう獣のそれ。腥い風を容赦なくぶつけられて、ようやくなまえにも今の状況が『拙い』という判断がついた。些か遅すぎるのは否めないが、残念ながら通常運転である。
しかしまあ、いざ本当に『拙い』と判断すれば、その後の対応は迅速である。なまえは後ろに回していた左手で、霊符を1枚取り出そうとした。――その、1秒前。
乱暴に腕を引っ張られ、つんのめった身体が、別方向から伸びてきた腕にしっかりと支えられて止まる。

「何をしている」

突然耳朶を叩いた別の声は、今度は覚えも親しみもあるものだった。それでも驚いたのは、その声が予想外に近く……具体的に言うなら、片方の耳のすぐ側から聞こえたせいだろう。
はたと顔を上げれば、そこにはまだなまえの腕を掴んだままの男が、やはり驚いた顔をしてなまえのやや左側を見ている。

「何やら揉めているようだが」

片腕だけで、しかししっかりとなまえの腰を抱き留めている相手の顔は、見えない。それはなまえにとってもそうだし、背を向けられている男にとってもそうだ。

「公共の場での迷惑行為は禁止されている。特に暴力行為を伴うものは処罰の対象だ」

しかし、たとえ顔が見えずとも、声しか聞けずとも、分かることはある。

「未遂で済んでいる今のうちに言っておこう」

例えばその、地を這うような声音から分かる怒気だとか。
その全身から立ち上っている、殺気染みた気迫だとか。

「失せろ」

遠走高飛。脱兎之勢。振り返った肩越しに射貫くような眼で睨み付けられた男が、悲鳴を上げて一目散に逃げていく。まだ殆ど人間そのものの姿なのに、それこそ獣のように四つ足を使って。

「……」

漫画のような絵面に、遠巻きに見ていた者達の中にもゲラゲラ笑い転げる者達が出てくる。何だか少し可哀想な気がしたが、かといってどうすることも出来る筈が無い。
なまえは取り敢えず、自分を支えてくれている腕をぽんぽんと軽く叩き、いまいち踏ん張りきれていなかった両脚を踵まで地面に下ろした。カーキ色の袖に包まれた腕が、それを感じてかゆっくり引っ込められる。
くるりと身体ごと左を向けば、そこにはやはり予想通りの相手がいた。なまえよりも上の位置にある瑠璃色の双眸に、青白くも麗しいかんばせ。詰め襟型の軍服に包まれた背中は、今日もぴんと筋を伸ばしている。

「有り難うございます、斬島さん」

助かりました、とやんわり微笑んだなまえに、青年……斬島も先程までの殺気を引っ込め、微かに眦を和ませた。

 ◇◆

「じょしかい?」
「はい、女子会。一度やってみたいと言ったら、皆さん快諾してくださいまして」

アスファルトの敷き詰められていない、ただ均されただけの道を歩きながら、なまえは機嫌良く頷いていた。
普段から機嫌の悪いことの方が少ない彼女であるが、こうも目に見えて上機嫌であることもまた珍しい。斬島は少々新鮮な気持ちを味わいつつ、にこにこしている彼女に問うた。

「それでわざわざ此方まで?」
「皆さんお忙しいですから。キリカさんとあやこさんは夕方以降なら割と自由だそうですけど、遺駒さんはいつお仕事入るか分かりませんしねえ」

お休みが無くなることもあるんでしょう? と逆に問うてきたなまえに、斬島は特に考えず頷いた。獄卒、特に他の部署の手に余る仕事までどんどん回される『何でも課』である彼らは、その多忙さから予定された休日がふいになることも決して珍しくはない。
まあ勿論、自ら他の仲間達の仕事を手伝いに行き、自分で休日を無しにしてしまう者達も多くいるのだが。

「そういうわけなので、一番暇な私が皆さんの都合に合わせるのが筋かと思いまして」
「そうか」
「はい。……ふふふ、楽しみ」

うきうきと歩くなまえの足取りは軽い。じょしかい、とやらのことはよく分からないが、これだけなまえが楽しみにしているのなら、きっと良いものなのだろう。そっと眦を緩めた斬島は、しかしふとなまえの『右手首』を視界に入れ、俄に表情を固くする。

「斬島さん?」

突然険しい顔になった(とはいえ、傍目から見ればほぼ無表情だが)斬島に対し、なまえも歩みを止めて首を傾げる。無言で伸ばされた斬島の右手が、無防備に下がったなまえの手を捕まえた。

「痕になってる」
「え? ……ああ、ほんとですねえ」

苦々しさをありありと見せる斬島と対照的に、当のなまえは暢気なものだ。腫れ物に触るような手つきの斬島に手を掴まれたまま、のほほんと持ち上げられた自らの手を見る。日焼けも殆どしていない白い右手首には、今やくっきりとした青痣が取り巻いていた。それも明らかに人の手の形をした、人の手よりもだいぶ大きく歪なものが。

「館に行ったらまず手当てだな」

痣というのはつまり内出血だ。皮膚を破っていないだけで、身体の中で出血している。こういう傷は治りが悪いのだ。

「別に大丈夫ですよ?」
「お前の大丈夫は信用ならん」
「えー?」

急ぐぞ、と是非も無く言い放てば、なまえは苦笑気味に、しかし特に反論せずついてくる。
斬島は傷に負荷がかからぬよう、負傷した右手では無く左手を捕まえて引く。制服姿の獄卒が、生者の娘の手を引いているという実に珍しい絵面は、通行者達の眼もついでに良く引いた。
しかし、そんなものは斬島にとっては気にする価値も無い。そんなことよりも少々強引に、しかし斬島より一回り小さい歩調を乱さぬよう気をつけて歩く方が重要だった。

「お手数をおかけします」
「気にするな。お前が悪いわけではない」

有無を言わせぬ態度をとり続ける斬島に、反論を諦めたらしいなまえが小さく笑う気配が伝わった。小さな手が、そうっと握り替えしてくるのが伝わる。生者だけあって、その温度は斬島よりずっと温かい。

「そういえば」

布に包んだ温石でも握っているかのようだ。そんな感想が頭に浮かんだのとほぼ同時に、なまえがふと口を開く。

「斬島さん、先ほどの方に覚えはありますか?」
「……どういう意味だ?」

知らず、自分の声が低くなるのを感じる。先ほどの、というのは、つい先ほどなまえに絡み、尚且つ手首に痣まで負わせたあの獣妖怪だろう。人間に化けるのは下手ではないようだったが、感情の高ぶりでああもあっさり素が出る辺りはまだまだだ。それに何処の田舎から流れてきたのか知らないが、揉め事は何処に行っても禁則事項だろうに。

「いえ、別に深い意味はないんですけど」

原因が分かっているのかは不明だが、斬島の機嫌が降下したのは感じたらしい。なまえはふるりと首を横に振る。

「あの方、私と何処かで会ったようなことを言っていたので……もし私が覚えていないだけだったら、それは申し訳なかったなと」

うーん、と首を捻るなまえ。斬島は片方の眼を眇めてそれを見やる。
もしこれが木舌辺りだったら、「それはただ単にナンパの口実だっただけだ」とでも言っただろう。見るからに遊んでいる風情だったあの妖の様子を見るに、その可能性は最も高い。仮にそうでなかったとしても、そう思っておく方が色んなことが丸く収まる。
しかし今回に限って言うなら、あの男の言は所謂『でっち上げ』でも『嘘八百』でもない。あの男は間違いなくなまえのことを知っていて、且つ今日この日まで忘れていなかったのだろう。

『痛ってええ!!』

あれは確か、1ヶ月ほど前のことだっただろうか。雨上がりのぬかるんだ道で、そんな間抜けな悲鳴が響いた。見れば、丁度自分達の前を歩いていた男が、水たまりに足を取られて思い切り転倒してしまったところで。

『大丈夫ですか?』

それをうっかり目の前で見てしまったなまえが、ふらふらと近寄って男を助け起こした。ついでに持っていたハンカチで酷い汚れを拭き取り、そのまま名乗りもせず振り返りもせず立ち去った。
出来事を時系列に並べれば、たったそれだけのこと。ちなみにこのとき、なまえの側には斬島もいたのだが、恐らくあの男は覚えているまい。なまえにとってその日の出来事が些細な日常だったのと同じように、あの男にとっての斬島もまた、取るに足らない……記憶に残す必要の無い存在だったのだろうから。

『それじゃあ、私達はこれで』
『っ、あ……』

しかし、生憎と斬島はあの男を覚えていた。別に覚えていたくて、或いは覚えようと思って覚えていたわけではない。ただ単純に、あの男の転び方が余りに見事だったので印象に残ったのと、

『ま、ちょ、ちょっと待っ……!』

上擦った声でなまえを引き留めようとしていた男の、逆上せ上がった顔が無性に気にくわなかったせいだ。

「……どうだろうな」

少なくとも、俺は知らない奴だ。そう口にした斬島に、嘘を吐いたという罪悪感はない。というか、別に嘘を言っているわけでも無い。実際あの男は斬島を認識していないし、斬島もあの男を覚えていただけで『知っている』わけではないのだから。

「ですよねえ」

曲がりなりにも生者であるなまえに、獄都の知り合いは多くない。その数少ない知り合いの殆ど全ては、この獄都の一角に館を構える『特務室』の獄卒、またはその関係者だ。あの男はそのどちらでもない。

「それより少し急ぐぞ。こういう傷は処置が遅れると快癒まで長い」
「はい」

思考を止めるよう半ば強引に話題を切った斬島に対し、なまえは特に間を置かず肯った。よし、と言葉に出さず、表情にも見せず、斬島はただ1度頷く。
これで先ほどのことは、なまえの中でちょっとしたハプニング、または気に留める必要もないこととして処理されるだろう。日が経つにつれて思い出すことは無くなり、やがて記憶の奥底に埋没していくだろう。

「なまえ、痛むか?」
「え? いえ、そんなには」

だが、それで良い。それが一番良い。
覚えている必要など無い。覚えようとする価値も無い。友人でもなく、家族でもない。ましてや自分でもない男の記憶など、記憶に留める労力すら勿体ない。
きっとなまえは知りもしないだろう仄暗い思考を働かせながら、斬島はそっと右手の力を強める。一回りも二回りも小さな少女の手が余りにも無防備で、それがやけに可笑しかった。

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