血潮より濃く、光より目映き | ナノ


▼ 余熱

「あーもう、めんどくさい!」

じゅわっ、と何だかいい音を立てて、文字通りカチンコチンに凍っていた氷が溶けて水になり、更に間を空けず蒸気になって消えていく。むわりと上昇する湿度に、ますます苛々して仕方ない。一応定期的に呪文を切り替えて冷風を出したりはしてるんだけども、溶かす作業に戻れば、すぐに湿気も熱気も復活する。

「暑い……むしむしする……うざったい……!」

いっそ部屋ごと吹っ飛ばしてやろうか。なんて考えたのも一度や二度じゃない。しかしそれが出来ない理由がある。1つは、曲がりなりにもこの部屋がこの船の医務室であること(要するに、貴重な薬とか器具とかが多少なり蓄えられていること)、そしてもう1つは、

「自業自得だろうが」

後ろでニヤニヤ笑いながら、あたしを見張ってるクソヤローがいること!!

「元はと言えばアンタが……!!」

と、精一杯ガンつけたところでこのクソヤロー、もといトラファルガーが堪えないのはもうわかりきったこと。分かっていてもサラっとスルー出来ない辺り、我ながら気が短いなとは思うものの、『自覚はすれども反省はせず』なので、特に改めようとは思わない。
ていうか、この関しては100%どころか500%くらいは奴が悪い。うん。

「俺が何だ?」
「……別に」

しかしながら、悪いと思ってはいても、此処で売り言葉に買い言葉すればまたしてもあたしがダメージを受けることは必至なわけで。哀れか弱い乙女は涙を呑んで、こいつの「お前がやったんだからお前が何とかしろ」というエラソーなご命令に渋々従い、医務室の掃除に勤しむしかないのであった。まる。

「か弱い? おいミュリエル、冗談は休み休み言えよ」
「煩いわね!!」

てゆーか独り言にイチイチ突っ込むんじゃねーわよ!! この暇人!!

「暇に見えるか? お前を見張るのに忙しいんだが」
「それが暇だっつってんでしょ!?」
「隙あらば人をぶっ殺そうとしたり船沈めようとする女を見張るのは当然だろ」
「そうさせてんのはアンタでしょーが!!」

嫌ならさっさと心臓返しなさいよ!! と、がなるあたしの怒りも何のその。本当に涼しい顔をしているのが気に入らない。すっかり氷が溶けて乾いている医務室の椅子に座ったトラファルガーは、優雅にその長い足を組んで踏ん反り返っている。
……もうちょっと右に避けてくれれば良いのに。そんでもってまだ凍ってるその辺の床に滑って転んで腰でも痛めてしまえ。

「おい、そこ危ねぇぞ」
「何がょ……うわきゃっ!?」

べしゃっっ。

「いっっったぁー!」

は、鼻打った……! う、嘘うそ、嘘でしょ? よりによってこんな時に!

「……」
「……」
「……」
「……」

い、痛い痛い痛い! 打った場所もだけどこの沈黙が痛すぎる! え、何これ、何の羞恥プレイなのこれ。誰が悪いの? え、あたし? あたしが悪い? え? え?

「……大丈夫か?」

し、心配されただと……!? ってされてないわ間違えた! 声震えててんじゃないのよ明らかに! がばっと顔を上げてみれば、案の定そこには口元をぴくぴくさせているトラファルガーの姿がっっ。

「笑いたいなら笑いなさいよ……!!」

辛うじて鼻血は出なかったものの、じんじんと痛んでいる(多分赤くもなっている)鼻と頬を手で隠してあたしは立ち上がる。けど多分迫力は普段の7割減だ。涙目になっているのが自分でも分かる。……ううううう、何よこれ。こんな屈辱があっていいのかあたし!

「〜〜っっ、もう!!」

勢いに任せて、その辺の氷を一斉に溶かしていく。じゅわわわわわっっという、文字通り『氷の塊を熱湯に放り込んだときのような音』がして、あたしの頭よりも大きな氷塊が溶けて消える。次いで、ぶわわわっと舞い上がったのは大量の湯気。
……うっわ煙い! ってゆーか暑い!! あと熱い!!

「おい、もっと加減してやれよ」

トラファルガーの文句が聞こえるが、湯気のせいかくぐもってるようだった。っつーか知らんわそんなん。

「あんたが此処どうにかしろっつったんでしょーが!」

と、怒鳴るあたしの声もちょっとこもってて格好が付かない。ただまあ、この湯気であたしの顔は見えないだろうし、ある意味結果オーライかも知れない。……いや駄目だ。暑い。すっごい暑い。暑い上に蒸れて鬱陶しい。
取り敢えず、簡略化した氷魔法を唱える。冷たい風で湯気を無理矢理室外に押し出せば、すぐにある程度は涼しくなった。視界も、晴れる。

「ふー……っ」

あー、暑かった……。

「おい、こっちまだ暑ぃぜ」
「……知らないわよ」

大体あんた、好きでそこにいるんでしょーが。と、舌を出したあたしに、トラファルガーは特に反論しなかった。勝手にあたしを見張ってそこにいたんだから、せいぜい最後まで暑い思いをすれば良いのよ。
……しかし、この蒸れは酷い。多少の冷気じゃすぐにまた汗が浮かんでくる。取り敢えずぼそぼそ呪文は唱え続けながら、あたしは自分の髪を取り敢えずまとめ始めた。
色は母ちゃん、質は母ちゃん4割・父ちゃん6割の微妙なウェーブヘア。母ちゃんみたいにふわふわくるくるでもなく、父ちゃんみたいなサラサラストレートでもない。まあまとめやすいと言えば、まとめやすい、そんな髪。あたしは取り敢えずそれを1つに束ねて、なるべく高い位置でポニーテールにした。……うん、ちょっとスッキリ。

「――へェ」

ちょっと気になる後れ毛を見つけて、結び直そうか迷っていたあたしの耳に、妙な感嘆詞が届いた。勿論発信源は、何か意味ありげな笑みを浮かべた(こいつは大体いつもこんな顔してるけど)トラファルガー。

「何よ」

凄く、物っっっ凄く嫌な予感はしたものの、取り敢えず聞いてはみる。大体あたしにとって良いことは出てこないって分かってるけど、放置してるのも気味が悪いから。トラファルガーはそんなあたしの心境を知ってか知らずか、にぃ、と口角をもっと上げた。

「『胸も色気も母胎に忘れて生まれてきて』るんだっけか?」

……なんだろう、凄いダメージ。自分で言ったセリフだって分かってるのに。

「だったら何」

発言次第ではもう一段階くらい強烈な電流でも食らわせてやろうと(ついでに心臓も一緒に掻っ払おうと)あたしは身構える。

「胸はさておき、色気はあるんじゃねえか?」

……。

「……は?」
「何だ、聞こえなかったか?」

いや。聞こえたけど。っつーか、何言ってんのあんた。思わず目を瞠ったあたしを余所に、どうも奴はあたしの首の後ろあたりを見ている。

「そうしてると十分色っぽいぜ、ミュリエル」

ちろり、と自分の口元を舐めたトラファルガーの、当たり前だけど赤い舌。その色に何でか思い出されたのは、ほんの数日前。あたしに触れたあいつの……。

「……」
「……」
「……」
「……」
「……ばっ」
「ば?」

あああああああ゛あ゛!! 何で何で何で! なんで今思い出したあたし!!
顔どころか耳や首まで真っ赤になったのが自分でも分かった。もはやメンチ切ったり威嚇するどころじゃない。もう駄目。……もう駄目!!

「っっ――馬鹿言ってんじゃないわよ!! このスカポンタンッ!!」

まさに脱兎の如く、あたしはその場から駆けだした。イタチの最後っ屁とばかりにスリッパを片方投げたものの、多分当たってはいない。本当に隙が無くて腹が立つ。
……嗚呼、あたし、こんな調子で心臓は取り戻せるのか。左胸に手をやってみても、今は空っぽなその場所は鼓動を伝えてくれない。ただただ血流だけが活発になる辺り、あたしはまだ、奴のファーストキス強奪から立ち直っていないらしい。

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