血潮より濃く、光より目映き | ナノ


▼ 接触

何が起こったか分からない。言葉にすればそんなもの。だけどまあ、そのときのあたしには、そんなツッコミを自分でする脳味噌のキャパシティはなかったと言っていい。
近すぎてピンボケしている秀麗な顔。血色悪い癖に特段荒れてもいない(許すまじ)肌。少々癖のある黒髪は、間近で見ると真っ黒ではなく、濃くて暗い茶色だった。鼻を突くのはほんの僅かながらエタノールの匂い。嗚呼そういえばこいつ医者だっけ、なんて、今更過ぎることを考えてみたりもした。

――ナニコレ。

あたしの心境はそれだけである。ナニコレ。ナニコレ。何なのこれ、意味わかんない。
目の前にある、というかもう、体温が分かりそうなほど近くにあるのがトラファルガーの顔だってのは分かる。それは分かる。辛うじて。だけど……何。何なのこれ。何なのこの状況。

――今、あたしの唇に触れてる、湿った冷たいものは、何?

「何だ、ムード無ェな」

ふと、トラファルガーの顔がちょっと離れた。ピンボケしていた顔に焦点があって、ムカツクほど綺麗な顔がハッキリ見えるようになる。浮かべているのは、普段通りの性格の悪い笑顔……なら、まだ良かったかも知れない。
凄絶。そんな言葉がふと頭に浮かんで離れなくなる。そんな笑い方だった。いや、性格悪そうってのは変わらない。明らかに何か企んでる、『笑顔』と称するのに抵抗ありまくりの顔なのは間違いない。
だけど、凄絶。その一言だ。言葉を操る者としてというより、根っからの商人気質で(何せ実家は商家だ)ボキャブラリーは割かし豊富なあたしをして、それくらいしか形容するにぴったりな言葉が見つからない程に。
何がそんなにと考えて、嗚呼そうだ、色っぽいんだ、と他人事のように思った。色気。それも女とは方向性の少し違う、男の色気。そこには照れも恥も微塵程度にすらない。自信と矜持に裏打ちされた男の表情が、この背筋のぞくぞくするような色っぽさを作りだしている。
……って、何を暢気に解説してるんだあたしは!!

「此処は目ぇ閉じろよ」

猫にするように首のところを擽られる。ぞわり。背筋がまた少し泡だった。思わず身震いをしたあたしの耳に、ク、と押し殺した笑い声が届く。

「ハッ」

「可愛いモンだな」と、続けられたような気がしたが、褒められてる、なんて暢気に考える余裕はない。大体あたしは実家ででも何でも「可愛い」なんて聞き飽きているくらい聞いているのだ。そして何よりあたしがあたし自身を『まあそこそこ可愛い』と思ってる。今更褒められてもどうってことはない。
……って、そんな場合でもなくて!!

「あんた、何……」

してたの、と続けたかったけど、言葉にならなかった。普段のあたしからは考えられないくらい小さい、震えた声。これがあたしか、と脳味噌の冷静な部分が愕然としてる。青ざめているのか、赤らんでいるのか、自分の顔色すら感じ取れない。

「面白ェ顔」

にんまりと笑みを深めたトラファルガーが、自分の唇を舐めた。ぺろり。ほんの僅かに見えた舌は血のように赤い。そして微かに覗いた前歯は健康的な白。こんなことで、この血の気のない男も生きた人間なんだなと、当たり前のことを考える。
……嗚呼、あたしは今冷静じゃない。

「何だ、もしかして初めてか?」

初めてって何が。分からない。わからない。……いや、違う。本当は分かる。分かってる。ただ脳味噌がひたすらに拒否してる。事実を認識しようとしない。他ならぬあたし自身の無意識で。でも分かる。本当は分かってる。

「可愛いな、ミュリエル」

くい、と顎を持ち上げられる。あたしが座ってるベッドの側で、少しだけ腰を屈めているトラファルガーの顔の位置は、当然ながらあたしの視線より少し高い。
嗚呼、この構図、傍目からはどう見えてんのかな。ひょっとしてひょっとしなくても、少女漫画みたいな「うわわわわ」なシーンに見えてんのか。

「だから、目ぇ閉じろって」

ちょっと待て。少女漫画?
……誰と、誰が?

「ミュリエル」

ふう、と耳元に吐息がかかる。ぴくんと身体が震えたのは条件反射だ。さっきよりも更に近くで、喉を鳴らして笑う音。
気がついたらトラファルガーの顔はまたピンボケしだしていて、あたしはそこで、ようやっとその時点で、我に返った。

「んのっ……!!」

取り落としたトイレスリッパを拾う余裕はない。渾身のビンタを鼓膜にぶつけようとしたあたしは、再度その手を捕まえられた。

「おっと」

相も変わらず憎らしい反射神経だ。郷里の父ちゃんだって大人しく母ちゃんに殴られてやってるというのに!!
が、同じ轍は二度と踏まない。あたしはすかさず、詠唱の短い初級術をぶっ放す!

「雷撃(モノ・ヴォルト)!!」
「ぐぁっ!?」

掴まれた手を通して、命に別状はない程度の電撃がトラファルガーに伝わる。威力としては微弱で、せいぜい少しの間身体を麻痺させるレベルの電流だけど、不意打ちとしては十分すぎるものだ。
さっきあたしも電撃食らったし、これはこれでお相子とする。
が、それだけでは済まさない。済ましてはいけない。
だってだって、こいつよりによってあたし、あたしの……!

「何だ、やっぱ初めてか」
「……!!」

ぶちん。

「氷魔轟(ヴァイス・フリーズ)!!」

此処で、あたしが好んで使う火炎系の呪文を唱えなかったのは、此処が海のど真ん中だっていう理性が僅かに働いたからだろう。
だけど結局口から飛び出したのは、氷結系精霊魔法の中では『最強』のそれ。結果あたしの使っていたこの医務室は文字通りの『氷漬け』となり、船員全体から苦情が出ることになるんだが、それはまあ別の話として。

「おいおい、薬品が駄目になるだろうが」
「うっさい!!」

ふざっけんなコノヤロウ!!

「やっぱ初めてか、お前」
「うるさいパンダ目貧血男!!」

人のふ、ふ、ファーストキス奪っといてその言い草とか!!
毎日でも箪笥の角に小指ぶつけて悶絶してれば良い!!

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