「よく似合ってるよ」

目の前でにっこり微笑む愁生とは対称的に、焔椎真はその場から走って逃げ出したい衝動に駆られていた。しかし踝まであるロングスカートを身に纏ったこの姿では無理があったし、何より劇の開演まであと十分とないのだ。焔椎真は天を仰いだ。

学校の恒例行事であり一大イベントでもある文化祭で、焔椎真はクラスの出し物である劇でお姫様役という大役を任された。もちろん決まった当初は全力で拒否したのだが、クラスメイト全員からの熱い要望(まさか土下座までされるとは!)に、元来お人好しの焔椎真は断りきれず渋々承諾したのだった。
しかし、自分がお姫様なんて柄ではないと思っていた焔椎真は、今日までこのことを誰にも伝えてこなかった。十瑚にも夕月にも、もちろん愁生にも。嘘や隠し事は元々好きではないのだが、友人や恋人に恥を晒すことを考えれば致し方ない。危うい場面は多々あったが、接触自体を控えることで決定的なぼろを出すことなく何とか当日を迎えることができた。そう、できたと思っていたのに。リハーサルを終え会場である体育館に向かえば、当然のように愁生はそこにいた。
「風紀委員だから」という納得できるようなできないような理由でクラスメイトたちをいとも簡単に言いくるめた愁生は、本番直前だというのに主役である焔椎真を舞台裏の誰もいないところまで連れ出した。そして今に至る。

目の前に悠然と立つ愁生は一見人当たりのよい笑みを浮かべている。しかし、その目が笑っていないことに気付かない焔椎真ではなかった。彼は怒っている。何に対してかは分からないが、この現状を快く思っていないことは明らかだった。どうせ似合っていないとか、ひどく滑稽だとか、思っているんだろう。そんなこと、誰よりも自分が一番思っていることだ。ただそれを愁生にだけは。愁生にだけはそんな風に思われたくなかったのに。だから愁生には知られたくなかったのに。もう、なんだか泣きたくなってきた。

「なんだよ…」
「…焔椎真?」
「別に…自分でも似合ってないって、わかってる、し…」

ぼそぼそと呟きながら、焔椎真はスカートの裾をぎゅうと握った。このフリルがふんだんにあしらわれたピンクのドレスは裁縫が得意なクラスの女子たちが連日放課後に居残りをしてまで作ってくれたものだ。とても可愛らしく、お姫様にぴったりの衣装だと思う。しかしそれも身に付ける自分のせいで台無しだ。なんて勿体ない。
唇を噛み締める焔椎真に愁生は眉をひそめる。どうやら彼女は大きな思い違いをしているようだ。

「焔椎真…勘違いしてるみたいだけど」
「…」
「言っただろう?似合ってるよ」
「でも、」
「そりゃあ普段と雰囲気が違うから驚いたけど…すごく可愛いよ」
「でも、だって、…怒ってるだろ」

思いがけない焔椎真の言葉に愁生は目を見開く。それからしばらく考え込む仕草をみせた後、はああと深いため息を吐いて脱力した。

「…ああ、そうか。そうだね、悪かった…勘違いさせたのは俺のせいだね」
「…?」
「怒ってなんかないよ。そうじゃなくて…妬いてるんだ」
「え」

焔椎真は大きな瞳をよりいっそう大きくしてぱちぱちと瞬きをした。妬く?愁生が?何に?
訳が分からずじっと愁生を見つめると、愁生は罰が悪そうに顔を逸らした。その仕草はどこか拗ねているようにも見えた。
本当に、目の前の焔椎真は可愛らしかった。だからこそ愁生は心穏やかではいられなかったのだ。先ほどまで彼女に向けられていた男子生徒たちの視線を思い出せば、それは尚更だった。

「焔椎真がこんな可愛らしい格好をしてるのに、それが俺のためじゃないって考えたら…苛々して。だから焔椎真は何も悪くないんだ」
「…愁生」
「彼氏として当たり前だろう?だって焔椎真は俺だけのお姫様なのに…」

愁生はそう呟くと焔椎真の手を取り、優雅な動作でその甲にちゅっと口付けた。それから彼女を抱き寄せ、耳元で小さく囁く。
それは劇の練習で王子様役の男子生徒から向けられたどの台詞よりも、焔椎真の心を揺さぶった。

「…っ、」

おかげでその後行われた劇での焔椎真の演技は散々たるものだったが、愁生の機嫌は頗る良かったという。



お姫様の有権は
彼にあるのであしからず。