いガール
(カフェ店員とお客さま)



焔椎真は恋をしていた。初めての恋だった。

「…お待たせしました」
「ありがとう」

持ってきた珈琲をテーブルの上に置くと、足を組んで本を読んでいた男が顔を上げた。ひどく端正な顔立ちだった。
その男はこのカフェの常連だった。週に一、二度夕方になるとやってきては、決まって珈琲を一杯注文する。その手にはいつも違うタイトルの文庫本が握られていた。
男に礼を述べられ焔椎真はひとつお辞儀をすると足早にキッチンへ戻った。平常心。平常心。心ではそう唱えていたが心臓はばくばくとうるさく鳴っていた。

焔椎真はこの常連の男に恋をしていた。名前も年齢も職業も知らない客。でもこれは恋だと焔椎真は確信していた。だってバイト中の今はもちろん、学校にいるときも家にいるときも頭の中は常に彼のことでいっぱいなのだから。
しかし、それと同時にこれは叶わない恋だとも焔椎真は思っていた。名前も年齢も職業も知らない。彼女がいるかどうかだって。…いや、絶対いる。ちらりと男に目をやる。整った顔に長い手足。さらさらの髪は清潔感があるし、シャツとジーンズというシンプルな服装だが品が良く、まるでモデルのようだった。
それに比べて自分はひどいものだ。癖の強い髪はいくら撫で付けてももさもさだし、店の制服である黒いエプロンは女の子らしさの欠片もない。かと言って普段の自分だってスカートは滅多にはかないのだから、そんな自分が彼と釣り合うなんて到底思えなかった。
でも、それでも焔椎真はこの男に恋をしていた。

(…あ。)

他のテーブルでの接客を終えフロアを見渡すと、男は既にレジで会計をしていた。…レジはたくさん話せるからいいな。お釣りを渡すのに手なんかも触れるんじゃないだろうか。羨ましかったが、がさつな自分にとって会計は縁遠い業務だった。
カランコロンと扉を鳴らし、男が店を後にする。もう帰ってしまった。いや、きっとまた来週来てくれる。気を持ち直し片付けのため彼のいたテーブルに向かう。そこには空っぽのコーヒーカップと、それから

「…、」

真新しい文庫本が一冊置いてあった。


店長に事情を説明し、焔椎真はエプロン姿のまま店を出た。本を両手で抱きしめ辺りを見回す。次の瞬間視界に入った男に向かって焔椎真は走り出した。

「あ、あの」

前を歩く男が角を曲がろうとしたので、急いで駆け寄り声をかける。焦りからか、思わず彼の服を掴んでいた。
振り向いた男は一瞬驚いた顔をしたが、焔椎真の手にあった本を視界に入れると合点がいったようで、「ああ」と苦笑した。

「それ、俺に届けに?」
「…」
「カフェの子だよね」
「…」

こくんこくんと、焔椎真は頷いた。ちゃんと言葉で返事をしたかったが、走って息が乱れていることと男が自分を見ていることに落ち着かなくて、それは叶わなかった。
気を悪くさせたかと不安になりちらりと顔を上げると、男と目があった。気のせいだろうか。男の頬はほんのり赤かった。

「わざわざ走ってきてくれたんだね。ありがとう」

彼のこんな笑顔を見たのは初めてかもしれない。急に恥ずかしくなった焔椎真が男の服からぱっと手を離すと、今度は男が慌てて焔椎真の手を握ってきた。彼の手に触れる日がくるなんて。焔椎真は胸が苦しくなり、持っていた本をより強く抱きしめた。これは、夢だろうか。

「…名前は?」
「…え」
「わざと、なんだ。わざとその本、置いていった。君が気付いてくれたらいいなって…。ね、名前、何ていうの?」

いよいよこれは、夢だろうか。男は真っ直ぐ自分を見つめていた。綺麗な瞳だった。顔が、握りしめられた手が、熱い。そうだ、本を、返さなければ。そう思うのに体は動かず、そのかわり口が勝手に動き出した。

「…焔椎真」
「ほつま。ほつま、ね」

男の口から自分の名前が紡がれた瞬間、やはりこれは恋だと焔椎真は思った。だって、それだけでもう、泣きそうだった。名前だけでもいい。もっと彼を知りたい。もっと、もっと。
恋がこんなに苦しいものだったなんて、焔椎真は知らなかった。

「俺は愁生。…ほつま、よかったら今度俺と―」




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