「っ、」
「わわ!」
忘れ物をしたため、急いで次の移動教室に向かっていた私は、角を曲がった向こうから来る人に気づかなかった。ぶつかった相手が落としてしまった教科書を拾って渡す。
「ごめんなさい!急いでたから前見てなくて」
「いや、いいんだけど…」
「あっ、授業始まっちゃう!行かなきゃ!ほんと、ごめんなさい!」
遅れたらクラスメイトに迷惑を掛けてしまう。慌てていた私は、その場をさっさと後にした。当然ぶつかった、後輩と思わしき男の子の呟きも、耳に入らなかった。
「……なまえ?」



「さっきの人…ケガしてなかったかな…」
「さっき?」
「うん。授業前に廊下で人にぶつかったんだ…」
「あらら…」
移動教室からの帰り、千鶴と話しながら帰っていると、階段の側に総司先輩がいるのが見えた。
「あ」
「どうかしたの?」
「ぶつかったの…あの人だ」
総司先輩の横には、さっきぶつかった男の子がいた。
「平助くんだ。平助くーん!」
千鶴が手を振るのに気づいた、平助くんという男の子と、総司先輩がこっちを向く。男の子はおう、と手を挙げた。
「あの、さっきぶつかったの…」
「ああ、それ多分オレだと思う。ごめんな!前よく見てなくて!」
「いやいや、私が急いでたから!ごめんなさい」
私たちが二人頭を下げ合っているのを、総司先輩は眺めていた。それに気づいたように男の子は言った。
「オレ、藤堂平助!2年なんだ」
「えっ、同い年?」
「何だよ。何か変か?」
「ううん。なんかかわいいなって」
「なっ…」
かわいいとか言うな!!赤くなる平助くんを見て、千鶴が笑う。総司先輩は何も言わずに私たちを見ていた。
“相変わらずかわいいなーもう!”
“オレかわいくねえよ!なあ?”
“うん。かわいくない。すっごくかわいくない。僕の方がかわいいよ”
“あんたは張り合わなくていいの!”
“だって…。僕のこと滅多に誉めないくせに”
“拗ねないの!”
まただ。知らない人達の会話が頭に浮かぶ。でも分かる。この空気を私は確かに知ってるんだ。
“オレは…好きな奴にはかわいいじゃなくて、かっこいいって言って貰いたい”
“言って貰えるよ”
“本当か!?”
“平ちゃんなら大丈夫よ”
「へい、ちゃん…?」
呟いた言葉は、いつか確かに聞いた音で、跳ね返って心にじわりと染みた。
「なまえ!」
「やめなよ平助」
私の肩を掴んだ平ちゃんを、総司先輩が止めた。総司先輩の瞳はそこにいるはずの私を捉えてなくて、どこを見ているのかわからないくらいにぼうっとしている。
平ちゃん、だなんて。口からぽろっと出てきた。まるでいつもそう呼んでるみたいに。
「平助、行くよ」
「あっ…」
「総司!待てよ!」
「へ、平助くん、またね」「おう!」
総司先輩を追いかけて、平ちゃんは走って行ってしまった。残された千鶴は不安そうにその姿を見送っている。そういえば平ちゃんは、私の名前を知っていた。



授業が終わり、教室を出て帰る途中、ふと胴着を着けた人を見かけた。
「平ちゃん」
「なまえ!」
口元の水滴を拭って、ペットボトルの蓋をしながら、彼はにかりと笑った。
「昼はごめんな!途中で総司がトイレ行きたいとか言い出しちまって。オレまで巻き添え?みたいな」
「えっ、そうなの?恥ずかしがらずに言えばよかったのに」
はは、と平ちゃんはもう一度笑ったけど、なんだかぎこちなかった。私はちらりと平ちゃんのきれいな指を見ながら言った。
「あのね、知りたいことがあるの」
「……」
「どうして私の名前、知ってるの?自己紹介したっけ?」
「あー………えっと…いや、ほら…そうだよ!千鶴から…聞いてた、んだ。お前のこと。それに、同じ学年だから知っててもおかしくはねぇだろ?」
「…そっか」
「何で…そんなこと、聞くんだ?」
…前に、あなたに会ったことがあるような気がするから。とは言えなかった。おかしい子だと思われるかもしれない。なんだか、初めて会ったとは思えないから。
「や、なんでもない。忘れて!それより、部活?」
「おう!よかったらまた見に来いよ!」
「ありがとう。また明日ね」
「あ、待って!」
呼び止められてもう一度振り向く。平ちゃんが手を握りしめながら、私をじっと見て言った。
「お前、本当に覚えてないのか。からかってるんじゃなくて」
眉を寄せてやるせない表情をした彼の顔が、私に何を伝えたがっているのか、それはわからなかった。
「からかうって、何を?」
「っ、ごめん。オレ……。気をつけてな」
声は周りの喧騒に押され、私たちは別れた。



/その手に触れた