廊下を歩いていると、何やら大声が聞こえてきた。
「そうなのか!?俺はてっきりみょうじは下痢で遅刻したのかと……」
「馬っ鹿、お前…本当に女がわかってねえなあ……」
「しかしこれが土方さんに知れたら大事だぜ!?相手は総司だろ!?」
教員トイレの中からこんな会話が聞こえてきたら、誰だって怪しいと思うだろう。新八と原田の声だ。音を立てないようにそっと扉に近づく。
「朝、俺が見たときは付き合ってる感じだった。手も繋いでたし」
「左之ぉーお前見たのか!まあ二人して1限サボって、手まで繋いでたんならほぼ確定だよなー」
みょうじが総司と付き合っている?しかも一緒にサボった?しかしあいつがそんなことを簡単に出来るような奴だとは思えない。俺を恐れて…そんなことができる訳が無い。
……そう信じたかっただけかも知れないが。あいつが総司と居続けた理由は何なんだ。やっぱり本当に付き合ってやがんのか?無性に苛々して、何か殴りたい衝動に駆られる。あくまで、俺は教師。あいつは高校生。好きだとか嫌いだとか、そんな感情はいらない。それでも今、心の中にある焦りと怒りと、ほんの少しの悲しみは、誰にぶつけたらいい?まさかこの俺が本気でみょうじに惚れてんのか?何度もそれを自問して、"違う"という答えが返ってくるのを待っているのに。
煙草をくわえて、もやもやした感情を振り切る。別にいいじゃねえか、俺には関係が無い。みょうじが誰と付き合ってどうしようと。ぐっと口元に力を込めた。
確か今日はみょうじのクラスは昼休みの後に授業があったはずだ。そうだな……今までがおかしかっただけだ。
結局俺はこの日一度も、みょうじをまっすぐ見れなかった。嫌味の一言も言わなかったし、呼び出しもしなかった。これで良い。残ったのは、後味の悪い、心臓を握られるような感情だけ。


***



あの日以来、みょうじには一言も話しかけていない。呼び出しもしていない。きっと今まで、俺がしてきたことは煩わしいことでしかなかったはずだ。総司と付き合ってんだ、邪魔者は介入しない。何も見ないし、何も聞かない。それでいい。
「あ、土方さんじゃないですか」
教材室へ続く廊下に立っていたのは、総司とみょうじの二人だった。今一番見たくもねえ奴等を見ることになったのは果たして偶然か、それとも。ちっと舌打ちをする。なんだか少し悪寒がした。
「総司てめぇ、まだ懲りねえのか。遅刻した反省文書かすぞ!」
「こないだの遅刻はなまえちゃんも一緒ですよー」
「ちょっと先輩何言ってるんですか!私は被害者です!」
みょうじは、ちらりとも俺の方を見ようとしない。そりゃあそうだよな。今まで嫌って言うほど弄り倒して来たのに、急にそれが止まったら、何かあったと思うのが普通だよな。にこにこしながらみょうじの手を取る総司を、ぶん殴って血祭りに上げたかったが、必死に堪える。なるべく早くこの場から去りたい。そう思って歩き出す。
「土方さん」
「……何だ」
引き留められて振り向くと、総司の射抜くような目がこちらを見ていた。その瞬間のたった何秒かが数時間に感じるほど、空気は冷たかった。
「なまえちゃんのこと、好きなんでしょ?」
発された一言が硝子片のように突き刺さる。総司の隣で、みょうじが慌てるのが伝わってくる。
「……え、ちょっと先輩、何いきなりわけわかんないこと、」
「だからここのところ、ずっと態度がおかしかったんですよね?なまえちゃんから聞きましたよー」
総司を思い切り睨み付ける。だったら何なんだ。俺にどうしろと言う。教師の立場、俯くみょうじと、じっと俺を見て嘲笑する総司。その全てが俺を苛々させる。しかし俺の怒りは、声に出す前に、別の声に掻き消されてしまった。
「っ、何てこと言うんですか!!!」
みょうじが総司の手を振り払う。大きな瞳から涙がぼろぼろ溢れて頬を濡らした。俺はただ唖然とした。
「先輩はそんなに私をからかって、恥をかかせたいんですか!?」
「え、なまえちゃん…?」
「土方先生は…私が遅刻したり授業中寝たりする、取り柄のない駄目な生徒だからっ、勘当しただけです!」

違う。違うんだと、大声で言ってやりたい。総司の言う通り、その駄目な生徒に、俺は惹かれてんだ。本当はその震える肩を抱きたい。その背中に手を回して、髪を撫でてやりたい。それが出来たらどんなにいいだろう。
生徒だろうが教師だろうが人間だ。人を好きになって当たり前なのだと、国語の時間に生徒達に教えてきた俺が、踏み出せないでいる。何て皮肉な世界だ。
みょうじが走り去って行くのを、俺と総司はただ眺めているしか出来なかった。


泣かせてしまった


俺が、だ。弄った後に見せる泣きそうな顔より、馬鹿にした後に見せる悔しそうな顔より、俺が笑った後に同じように笑う顔が好きだって、そう思っているのに。